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うつは「意欲が下がる病気」ではない――「うつ」に関する10の誤解 1・2

與那覇 潤『知性は死なない』より

2018/04/12

genre : ライフ, 医療, 読書

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脳にサランラップをかけられたよう 

 じっさい、そもそもこの検査入院の際には、「いつから苦しいんですか」「いまどんな状態ですか」といった標準的な質問にも、「あー、うー」のようなことばならざることばでしか、答えられないようになっていました。治療入院中に知りあった友人は、この精神運動障害のさまを「脳にサランラップをかけられたようだ」と表現しましたが、おなじ体験をしたものとして、ほんとうに卓抜な比喩(ひゆ)だと思います。(6)

 うつ病の患者でなくても、風邪で額(ひたい)が熱ぼったいときや、重めの運動をして身体が疲れているとき、急な仕事が重なって食事や休息をとれなかったときには、一時的に「頭がぼんやりして、話しかけられても要領をえない返事しかできず、複雑なことは考えられない状態」になるでしょう。それが恒常的にずっとつづいてしまうのが、うつ状態だといえば想像しやすいでしょうか。

脳へのアクセスが悪化する「うつ状態」(田中圭一『うつヌケ』11頁より)
脳へのアクセスが悪化する「うつ状態」(田中圭一『うつヌケ』11頁より)

 能力が低下すれば、とうぜん仕事のパフォーマンスに影響します。経理職をされて発病した知人は、ある日「エクセルの行を左から右に追うこと」ができなくなって、自分の病気を自覚したと言っていました。私のばあいも、すでに何度も使ったテンプレートで学内予算を申請する、ふだんは10分前後で片付けていた作業を終えた際、1時間近い時間が経過していて愕然(がくぜん)としたことがあります。

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 書類やパソコンのような「もの」を相手にする仕事ではなく、学生や顧客といった人間を相手とする教育職や営業職になると、発病を自覚するのはより困難になります。教育(営業)の成果がどうしても上がらないばあいに、それが本人の意欲不足なのか、能力の低下によるのか、相手がほんとうに「筋悪(すじわる)の客」なのか、異論の余地なく判定できるというケースは、そこまで多くないでしょう。

 自分もまさにこのために、発病の時期を適切に認識できず、結果として自分自身の健康を不可逆的に損(そこ)なうだけでなく、周囲にも大きな迷惑をかけたと思っています。

 付言すると、うつ状態で生じる「からだの重さやつらさ」もまた、「毎朝、出勤の足が重い」といった「嫌な行動に乗り出す意欲が起きない」事態を指すふつうの語法とは、まったく意味がちがいます。

 医療現場では「鉛様(えんよう)の麻痺(まひ)」ということばで形容されるように(7)、本人の主観では自分の身体が鉛(なまり)になったかのように重くなり、自分の意思ではどうしても動かせない。

 動かないから仕事はおろか、食事にも洗顔・入浴にも行きたくない、という状態がうつ病における「からだの重さ」です。

「そんなのは身体を鍛(きた)えていないからだ」「そうはいってもトイレには行くじゃないか」と言う人には、私が病棟で同室だったラグビー部の男子大学生の「うつ状態が激しいときに、尿瓶(しびん)を買おうか本気で悩みました」ということばを紹介しておきたいと思います。

―――

(5)岡田尊司『うつと気分障害』幻冬舎新書、2010年、54~55頁。
(6)近日話題になった『うつヌケ うつトンネルを抜けた人たち』(KADOKAWA、2017年)でも、著者の田中圭一氏は、自身が体験した同様の状態を「濁った寒天」にたとえています。
(7)坂元薫『うつ病の誤解と偏見を斬る』日本評論社、2014年、3頁。

與那覇 潤(よなは・じゅん)

1979年生。東京大学教養学部卒業、同大学院総合文化研究科博士課程をへて、2007年から15年まで地方公立大学准教授として教鞭をとる。博士(学術)。在職時の講義録に『中国化する日本』(文春文庫)、『日本人はなぜ存在するか』(集英社文庫、近刊)。その他の著作に『翻訳の政治学』(岩波書店)、『帝国の残影』(NTT出版)など。

次回「うつ」に関する10の誤解 3・4

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