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市郎は自分と娘が1995年に死ぬことを知り…

 第5話、市郎は犬島渚(仲里依紗)から、父親のゆずる(古田新太)を紹介される。自分のことを「お父さん」と呼ぶゆずるに市郎は戸惑うのだが、やがて彼が娘の純子(河合優実)と結婚した夫で、渚が自分の孫娘だったことを知る。

 やがて市郎は、自分と純子が1995年の阪神・淡路大震災で命を落とすことを知り愕然とする。せめて純子だけは助けたいと思う市郎だったが、それは歴史を変えることになってしまう。

 第6話、複雑な葛藤を抱えた市郎は、久しぶりに1986年に戻り、純子と再会する。自分と娘が1995年に死ぬことを知った市郎と、何も知らない純子のやりとりは、これまでとは違う切ないものがある。

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『不適切にもほどがある!』公式インスタグラムより

「この作品には 不適切な台詞や喫煙シーンが含まれていますが 時代による言語表現や文化・風俗の変遷を描く本ドラマの特性に鑑み 1986年当時の表現をあえて使用して放送します」というテロップに被せて「おい! 起きろブス。盛りのついたメスゴリラ!」という暴言を市郎が純子に浴びせ、「うっせえなクソじじい!」と純子が言い返す場面から本作は始まった。

 市郎の暴力的なキャラクターと番組の立ち位置をわかりやすく示した見事な導入だったが、この市郎と純子のやりとりは第6話でも反復される。

 しかし、同じように酷い言葉で罵倒し合っていても、受ける印象は全く異なる。

 当初は「昭和の暴言オヤジ」と「あばずれの不良娘」 という記号的な存在だった市郎と純子だが、6話まで見続けてきた視聴者は、二人の個性を理解し、背後にある親子の信頼関係もわかっている。だから、どんな暴言をぶつけ合っていてもそこに愛情があることを知っている。

 台詞の背後にある人と人の関係性を丁寧に見せていくという演出は、尺の長い連続ドラマだからこそ伝わる表現だ。この1話と6話の対比を見て『不適切』がやりたかったのはこれだったのかと納得した。

クドカンが昭和から「小川市郎」を呼び出した理由

 こういった関係性の魅力は、台詞の一部を抜き出して、表現として不適切かどうかと言っても見えてこないものだ。誰が誰に対して、どういう心情で発言したのかといった文脈を抜きに、表現としての是非だけを語っても、本質が抜け落ちてしまう。

 批判の多かった第3話で市郎がハラスメントの境目について「みんな自分の娘だと思えばいいんじゃないかな」と言った後、娘にしないことは、他の女性にもしないと歌って基準を提示する場面も、前のシーンで市郎が純子を心配する姿を見ていれば、発言の意図は理解できるはずだ。しかし残念ながら、本作に対する批判の多くは、こういった話者の背後にある文脈を無視したものが多い。

 逆にいうと、背後の文脈を共有することがそこまで難しくなってしまったのが令和の日本で、だからこそ二重三重に厳格なルールを作り、お互いの行動を縛らないといけないのかもしれない。

 令和を生きる中年男性の筆者は、こういった社会の流れはある程度仕方がないと受け止めているが、おそらく宮藤はまだ諦めたくなかったのだろう。

 だから、昭和から小川市郎を呼び出し、令和という時代にぶつけたのだ。