正義というものが、いまの日本ではとても厄介になってしまっている。

 以前、大手海外通信社の記者が「私達記者は正義。がんばる」とツイートして話題になったことがあった。

 この記者の言う「正義」(私はこの日本的な正義は本来の正義と違うと思うので、区別するためカギカッコつきにしておく)は、善悪の善や正しさのようなものを意味しているのだろう。儒教でいう義(正しいこと)から転じた言葉なのではないだろうか。でもここで何が正しくて何が正しくないかという基準は、いったい誰に決めることができるのだろうか?

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 ここに「正義」の自分勝手さという難しい問題がある。自分勝手な「正義」は、いくつもの問題を引き起こす。たとえば、「正義」は弱者を勝手に選別してしまう。

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弱者として認定されない人たち

 LGBTや女性や障害者や少数民族は弱者として認定されることが多いけれども、弱者に認定してもらえない人たちもいる。典型的なのは、中高年で貧困層に陥って肥っていて、でも生活保護は受けていないような非正規の男性だ。これはネットの中では「キモくて金のないおっさん」問題と呼ばれていたりする。

 他にもある。福島第一原発事故で、郡山市や福島市、さらには関東地方など避難区域に入っていない土地から怖くて逃げた自主避難者は、弱者として認定された。じゃあ、地元に残って生活している郡山や福島の人たちは弱者じゃないのだろうか? 本当はどちらの人たちも、包摂されなければいけないんじゃないだろうか?

 いったい選別する権利を握っているのは誰なのか? 選別の正しさは、どこで担保されているんだろうか?