「正義」はつねに暴走してしまう
「正義」にはもう一つの問題がある。つねに暴走するという問題だ。善にもとづく「正義」は、最初は抑圧や人権侵害、貧困などに抵抗するために、悪と戦う。もちろんこれらの戦いにはとても正当性があるだろう。しかしつねに戦い続けなければ、「正義」は成り立たないというジレンマにいずれ陥って行く。だから悪が敗れたりいなくなったりすると、「正義」は戦う相手をなくして宙に浮いてしまう。そこで戦える相手を探し、なければ悪を無理やり作り出し、戦いを永遠に続けようとする。悪は勝手に決めつけられていて、ここにも選別の問題が見え隠れしている。
そして、気がつけば「正義」は、悪に対抗するために戦うのではなく、自分が自分として動き続けるためだけに戦うようになる。自己目的化するのだ。これが「正義」の暴走だ。
歴史を振り返ると、独裁者はたいていの場合、最初から独裁者だったわけではない。最初は抑圧への抵抗者として現れ、人々から人気を集め、そして政権を握ったとたんに自己目的化し、独裁になり、抑圧の側へと回る。ヒトラーも毛沢東もポルポトも、みんなそうだった。
このように「正義」はとても危うい。ではどうすればいいのだろうか?
本来の正義の話をするために
そこで私の提案は、本来の正義の話をしようということだ。本来の正義とは何かといえば、20世紀アメリカの偉大な思想家であるジョン・ロールズが著書「正義論」などで唱えた正義である。
ロールズの本の原題は「A Theory of Justice」。justiceは日本語のニュアンスとしては、正義というよりも「公正さ」という意味に近い。「フェアであること」と言い換えてもいいかもしれない。実際、「正義論」における正義は、「フェアであることとしての正義(Justice as Fairness)」とも説明されている。
これを正義と訳してしまったために、悪を懲らしめる超越的な「正義」と、フェアである正義がごっちゃになってしまったのが、日本で正義についての誤解が広まる原因になってしまったのではないかと思う。儒教的な日本の「正義」にはフェアというニュアンスは乏しい。
だからロールズは、正義に基づいて悪を懲らしめよ、などというようなことはいっさい言っていない。「正義論」はどこまでも、フェアであることをどう担保するのかというその一点について議論しているのだ。
ではロールズの語る正義とは、具体的にはどのようなものなのだろうか。