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佐藤愛子100歳“ぼけていく私”「余計なことを考えないで生きていると、なかなか死にません」

2024/03/21
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毎日していた習慣をしなくても平気に

 例えば今日インタビューがあって、お客さんがいらっしゃるということになったら、「お菓子ある? お茶菓子ある?」と家の者にちゃんと聞いて、用意してあると聞いて安心する。そういう習慣のようなものが身についていました。それが今は、「なければなくてもええわ」って、そんなふうになっちゃいました。

 毎日のように訪ねてくれる人がいたときは、部屋は暖まっているだろうか、散らかっていないだろうか、とあちこちに気がいきました、若いときは。それが今は、寒ければ寒いって言うだろうって(笑)。

 昔の人は習慣がたくさんあったのね。朝起きたらお日様を拝むという習慣を、死ぬまで続けた老人がいましたよ。神棚を毎日拝むっていうのは、私がしていた習慣です。昔はしなければ、気持ちが悪かったの。それが今は、しなくても平気っていうふうになりました。今、お話ししていて気づきました、全く拝んでいないなって。

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――もちろん来客用のテーブルには、お孫さんが運んでくれたお茶菓子とお茶が並んでいる。「もらい物があると聞いて、それならそれでよろしいと」というのが、佐藤さんの解説だ。

孫の桃子さんと北海道の浦河で ©文藝春秋

「ありのままで」と「開き直り」の違い

 人との付き合いにうるさい人は、私たちの年代にいたんです。お客さんにはこうしろとか、人との付き合いはこうだとか、心得ておかなきゃならないことがあって、それにうるさい人。でも長いこと生きていると、だんだん「まあ、ええわ」になって、それでいいおじいさん、おばあさんになる。うるさくないから。だから、こういうあり合わせのお菓子(笑)。

 あっちこっちに気がいっていたのが、それはもうどうでもよくなる。もうばあさんで、半分ぼけたようなばあさんになりかけているから、それで相手は許してくださるだろう。そういう甘えがありますね。年を取ると、甘えても許されるっていう感じになっていくの。これはまあ、悪くないっていう境地なんですよ。

佐藤愛子さん ©文藝春秋

 ありのままを人に見せることができるっていうのは、楽ですよ。相手の方もありのままに話してくだされば、私の方もありのままで対すればいい。昔の自分と比べたところで、これが今の私なんだからしょうがない、許してくださいと。年寄りっていうのはだいたいそういうふうに、私はもうこうなんだからしょうがないわ、許してもらうよりしょうがないわと、どこかで思ってますよ。

――それは「開き直り」とは違うのかと、あえて尋ねてみた。それへの答えをきっかけに、作家・佐藤愛子の話になっていった。

 自然体ですね。どう思われても構わないって。自然体で生きているっていうのは楽だし、相手の人も楽なのではないかと思います。