「おぼつかな それかあらぬか 明ぐれの 空おぼれする 朝顔の花(夕べ私の部屋に忍び込んだのは、本当にあなた? 夜明け前で薄暗く、この花が朝顔なのかどうかはっきり見えないので)」
宣孝の死去で、紫式部の結婚生活は2年で終わり、その数年後の寛弘2年(1005)か3年(1006)、一条天皇の后となった道長の長女、彰子のもとに出仕した。道長と紫式部の接点がはっきり見えるのは、その前後からである。
紫式部が『源氏物語』の執筆をはじめたのは、宣孝の死後、宮廷への出仕前だと考えられている。だた、当時は書くための料紙が非常に高価だった。歴史学者の倉本一宏氏の計算では、全54巻には617枚の料紙が必要となり、書き損じや下書きをふくめると、そんな枚数では済まなかったはずだという。
そのうえで倉本氏は、「これらの料紙、そして筆や墨を紫式部に与え、『源氏物語』の執筆を依頼(または命令)した主体として、道長を想定することは、きわめて自然なことであろう」と書いている(『増補版 藤原道長の権力と欲望』文春新書)。
その目的は「この物語を一条天皇に見せること、そしてそれを彰子への寵愛につなげることであった」と記す(前掲書)。
道長は紫式部の能力を買っていた
道長の期待は、一条天皇のもとに入内させた彰子が皇子を産むことにあった。彰子のもとに『源氏物語』があれば、物語好きの天皇が彰子の在所を頻繁に訪れ、懐妊の可能性が高まる――。紫式部にこの物語を書かせたのは、そういう目的にもとづくというのである。
むろん、それは紫式部の教養と能力を道長が評価していたからにほかなるまい。その点では、2人の接点は以前からあったのだろう。紫式部が彰子のもとに出仕した際、公的な官があたえられたわけではなく、私的に採用されている。道長に見込まれ、『源氏物語』の続きを執筆することを期待されての出仕だった可能性が高いと思われる。
期待どおりに彰子が懐妊したのは、寛弘4年(1007)の暮れで、翌5年(1008)9月に敦成親王(のちの後一条天皇)が誕生した。その2カ月足らず前には、『紫式部日記』の執筆がはじまっている。