「遺伝子検査が流行している」「遺伝病が怖いから着床前診断をした」といったように、「遺伝子」という言葉はすっかり日常語になった。だが人類が「遺伝子」を発見したのはそれほど昔のことではない。中世では、精子の中に人間が入っていて、それが膨らんで赤ん坊になると信じられていた時代もあったという。

『遺伝子 親密なる人類史 上』(シッダールタ・ムカジー 著/仲野徹 監修/田中文 訳)

 本書はメンデルから始まる遺伝子研究百五十年の歴史を紐解いた一冊だ。大著なのだが、オススメは下巻の第五部から読むこと。遺伝子にまつわる最新の研究事情が一気にわかる。

 たとえば「生まれか育ちか」という議論がある。人類遺伝学は、遺伝子の影響は無視できないほど大きいことを突き止めた。統合失調症や双極性障害には明確に遺伝的傾向があるといった具合だ。

ADVERTISEMENT

 遺伝学はこんなことも明らかにした。ある研究では、五十六組の一卵性双生児のうち、どちらもゲイである割合は五十二%にも上ったという。これは、十%と推定される一般人口のゲイ割合よりはるかに高い。ゲイに限らず、生後離れて暮らしていたのに、同じような特徴を持つ双子の存在も多く報告されている。

 しかし難しいのはここからだ。遺伝学的に完全に同一であるはずの一卵性双生児が同じ環境で育った場合でさえ、まるで違う性格を持つことがある。遺伝子は絶対ではないのか。

 答えは非常に文学的である。同じ遺伝子を持っていても、わずかな偶然が遺伝子に影響を与え、彼らを全く別の人間に変えるというのだ。病気や事故はもちろん、恋愛や観劇が遺伝子の発現を左右する場合もある。「生まれ」は「育ち」で変わるのだ。

 しかも、才能と障害は紙一重。統合失調症を引き起こす遺伝子は、同時に高い創造性も生み出している可能性が高い。たとえば胎児診断と中絶が流行した世界では、ムンクのような画家は生まれないかも知れない。

 そもそも病気とは絶対的な障害ではなく、「生まれ」と環境のミスマッチだと考えることができる。目の見えない人はこの世界では「障害者」だが、触覚が重視される世界では優秀だと見なされる可能性が高い。

 このような遺伝研究の最新事情を把握した後で、上巻へ戻るのがいい。上巻では現代遺伝学の歴史と、それが優生学としてどれほどの惨劇を生んできたかが丁寧に描かれる。最たる例はナチスドイツが試みた「民族浄化」だ。ナチスはユダヤ人の大量虐殺のみならず、彼らが「障害者」と見なした人々の殺害を実行した。生まれつき全盲で四肢に奇形のあった乳児の殺害から始まり、徐々に対象を拡大していき、国中に安楽死施設が作られることになった。

 この負の歴史が描かれることで、先進国が遺伝研究に及び腰になる理由もよくわかる。ナチスの優生学は、現代の研究水準から考えるとお話にならないことがわかっている。しかし、いくら研究レベルが上がっても、一般人の認識はそこまで変わらないもの。「遺伝子」というそれっぽい言葉に踊らされて、新優生学が幅を利かせる可能性は十分にある。実際、日本でもこの数年、手軽な遺伝子検査キットが流行している。占い程度に用いるなら害はないが、それが差別につながる危険もある。

 実は著者のムカジー自身も親族に統合失調症や双極性障害の患者を持つ。つまり彼自身も、統計的にいえば、一般の人よりもそうした病気を発症する可能性が高い。その意味で本書は非常に切実な本だ。遺伝学の希望と危険を知る上で、現時点における最良の一冊である。

遺伝子‐親密なる人類史‐ 上

シッダールタ ムカジー(著),田中 文(翻訳)

早川書房
2018年2月6日 発売

購入する

遺伝子‐親密なる人類史‐ 下

シッダールタ ムカジー(著),田中 文(翻訳)

早川書房
2018年2月6日 発売

購入する