余談だが、水城アユミは、「存在」は美空ひばりを想起させるが、「設定」は父親が戦前からのジャズ・ピアニスト股野義夫(森永悠希)で、スズ子の憧れの大先輩・大和礼子(蒼井優)の遺児である。現在は父・股野義夫がアユミのマネージメントをしている。その点では、江利チエミと重なる。
笠置が紅白に初出場したのはラジオ放送時代の第2回
江利チエミの父・久保益雄は、戦前は外国航路のジャズバンドのピアニストで、戦後は娘のマネジャーをして、天才少女歌手をスターに育てた。その江利チエミは、第7回紅白歌合戦で、4回目の出場を果たし「おてんばキキ」(作詞・Roger Lucchesi 作曲・Andre Popp)を歌っている。ちなみに雪村いづみにも出場依頼があったが、体調を崩してこの年は出場がかなわなかった。
さて、ここで「笠置シヅ子と紅白歌合戦」を振り返ってみよう。笠置シヅ子が初めて紅白に出場したのが、1952(昭和27)年1月3日に開催された「第2回」から。この頃は大晦日ではなく、年始のオンエアだった。会場も劇場ではなく、内幸町にあったNHK東京放送会館・第1スタジオからラジオでの生放送。紅組は暁テル子、池真理子、菅原都々子など、白組が伊藤久男、霧島昇、藤山一郎など、それぞれ12組、24名の歌手が出場した。
ここで笠置シヅ子が歌ったのが、1950(昭和25)年6月にリリースしてビッグヒットとなった「買物ブギー」(作詞・村雨まさを)だった。「ホンマによう言わんわ」が流行語となり、全国の人々がこの曲で「大阪弁」の面白さを知った。
テレビ中継となった第4回では「東京ブギウギ」で沸かせた
笠置シヅ子は翌年、1953年(昭和28)1月2日、「第3回」に2回目の出場を果たした。ここで歌ったのが、1949年(昭和24)7月、空前の野球ブームのなかリリースした「ホームラン・ブギ」(作詞・サトウハチロー)だった。この曲をステージで歌うとき、笠置は応援団長のポーズでパワフルなパフォーマンスを披露。ある時、勢い余ってオーケストラボックスに落ちてしまったとか。