最後の紅白出場では淡谷のり子が笠置に「ヘイヘイ」
やがて「もはや戦後ではない」の1956年である。笠置シヅ子は、この年の大みそか「第7回紅白歌合戦」に紅組のトリ、しかも白組の灰田勝彦に続いて「大トリ」として出場。「ヘイヘイブギー」をパワフルに熱唱した。この時の音源がNHKアーカイブに残されているが、「あなたが笑えば 私も笑う」と楽しそうに笠置が歌うと、淡谷のり子をはじめとする紅組の女性歌手たちが「ヘイヘイ」とレスポンスする。まさに祝祭空間! である。
実はこの時、笠置シヅ子は緩やかに歌手引退を決意していた。愛娘が10歳となり、何不自由ない生活ができるようになった。最愛の人を失って「自分でこの子を育てる」と決意して10年、思うところがあったのだろう。
笠置シヅ子は42歳。小学校を卒業して少女歌劇の世界に入ってからちょうど30年目である。少女歌劇で10年、スウィングの女王で10年、ブギの女王として10年。彼女は日本のショウビジネスを牽引してきた。そのラストショーが「第7回」の「ヘイヘイブギー」でもあった。
ラストステージで挑戦したのは服部作曲のロックンロール
翌、昭和32年(1957)5月、新宿コマ・スタジアムでのステージ「クルクル・パレード」が最後の主演舞台となる。服部良一が笠置のために用意したのは、なんとロックンロールだった。さまざまなニューリズムに挑戦してきた笠置が最後にロックンロールを歌った。笠置と服部の音楽への挑戦は日本のリズム・音楽史でもあった。その後、俳優に転向した笠置シヅ子は「大阪のおばちゃん」キャラで親しまれ「生涯現役」を貫くことになる。
笠置シヅ子は、13歳で少女歌劇の世界に入り、10年のステージキャリアで、ダンスの基礎を学び、歌手としての素地を作った。生来の愛嬌(あいきょう)もまたコメディエンヌとして、大きな魅力となった。その才能を見いだした服部良一が、さらに「地声で歌うこと」を指導して、戦前、笠置シヅ子は「スウィングの女王」となった。その実力は、デビュー・レコード「ラッパと娘」を聞けば明らか。最近、その頃のパフォーマンスを記録した短編映画が発見されたが、その表現力はすでに完成されていたことがわかる。