結成から約100年が経つ、国内最大の暴力団・山口組。誰もが一度はその名を耳にしたことがあると思うが、組織の歴史や活動内容を知っている人は意外と少ないのではないだろうか?

 ここでは、山口組の歴史と組織の全貌をわかりやすく解説した、フリーランスライター・山川光彦氏の著書『令和の山口組』(新潮社)から一部を抜粋。“日本一有名なヤクザ”と呼ばれた3代目組長・田岡一雄について紹介する。(全2回の1回目/2回目に続く)

写真はイメージです ©アフロ

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3代目・田岡のもとで日本最大組織に

 山口組が息を吹き返すのは、終戦後の1946年に田岡一雄が3代目を襲名してからです。田岡は1913年に徳島県の寒村に生まれました。幼くして両親と死別し、見かねた神戸の親戚の家にひきとられます。初等教育を修了後、造船所の工員として働きはじめますが、生来の短気がもとで上司を殴り、職を離れてしまいます。

 以降、クスボリと呼ばれる愚連隊のような生活を送る中で、山口登(山口組2代目組長)の実弟(秀雄、「山口組合資会社」社主)と出会い、その血気を買われ、山口組の組員となることを許されます。

 当時、細身ながら骨太で、その無鉄砲さから「クマ」と呼ばれた田岡の凶暴性は、山口組の戦闘員としてうってつけの資質だったようです。山口組に立ち塞がる敵を次々と葬り、時には組織に歯向かった力士さえも斬り倒したほどです。

 登が重傷を負った時、真っ先に報復に走るはずの田岡は殺人罪で服役中でした。そして、敗戦とともに、戦争で三十数人まで勢力を減らした山口組を立て直すべき頭領として、並みいる叔父貴衆に推されて、そのトップとなったのです。

昭和53年7月、京都の高級ナイトクラブ「ベラミ」で襲撃された時の田岡一雄 ©文藝春秋

日本共産党系の労働組合を追放

 田岡が手始めに行ったのは、焼け跡に芽生えた闇市で傍若無人な振る舞いをする不良外国人(戦勝国民や日本が植民地としていた朝鮮半島や台湾出身の在留人民)を制圧することでした。

 敗戦に打ちひしがれ、復員してきた命知らずの若者たちは田岡の活動に「義侠」を感じて賛同し、彼を信奉する子分となっていきます。敗戦で無力化した“民主警察”も田岡の実力行使を応援したほどです。

 1950年に朝鮮戦争が勃発、神戸港は米軍の兵(へい)站(たん)基地と化し、荷役も激増します。追い風を受け田岡は、山口組の主要事業である船内荷役業においても、神戸港が占領軍の接収を解除されると、みずから会社を設立。田岡の弟分たちにも企業を設立させ、にわかに神戸港で存在感を増していきます。