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「反共」を信条とする田岡は、日本共産党系の労働組合を追放。全国の船内荷役業者の業界団体を創設し、自身も神戸支部長に就くのです。

最下層の労働者から絶大な支持を受けることに成功

 とはいえ、暴力だけでミナトを支配できるわけではありません。それまで組織化されることのなかった末端の日雇い労働者たちを焚き付けて、なんと労働組合を結成させるのです。共産党系労組の排除に恩を感じていた資本側も慌てたでしょうが、たった1日でもストで荷揚げがストップすれば莫大な損失となるので、田岡の意向を無視することはできなくなりました。

 実際、船内荷役中に事故に遭った労務者や日雇いからあぶれた労務者の「アブレ賃」の補償を求めるなど、田岡は海運会社からいくつもの譲歩を勝ち取ります。みずからも日雇い労働者の住まいを建設し、行政に働きかけて労働者福祉センターまで作らせるなどして、最下層の労働者から絶大な支持を受けることに成功します。

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『田岡一雄自伝』によれば「労災病院にしても、尼崎にあって神戸にないのはヘンだと、田岡さんが県に陳情し、市を動かし、土地の選定から建設まで縁の下の雑事をやっていた」との側近の証言もあります。田岡のいう「任侠」の役割が、底辺労働の近代化というかたちで社会的にも求められる時代があったのです。

写真はイメージです ©アフロ

1960年代初めまでに36府県下を制する

 それは芸能興行の世界でも発揮されます。浮草稼業のうえに露骨なピンハネに泣き寝入りを余儀なくされていた芸人たちに気前よくギャラを支払うことで、信頼を得ます。さらに、国民的歌手である美空ひばりの後見人となり、その興行権を握ったことで、京都以西では「田岡なしでは興行ができない」とまで言われる実力者に若くして台頭しました。

 これだけならば立志伝中の企業家の成功談となるわけですが、田岡は稼いだ金を戦費として惜しみなく使うのです。「舎弟」と呼ばれる弟分たちには事業に専念させ、ヤクザの荒事から遠ざける一方で(当局に「企業舎弟」などと呼ばれました)、子分たちは競い合うように全国各地に進出し、地元組織と抗争を繰り広げていきます。

 神戸の地元組織をなぎ倒し、隣接する商都・大阪の組織も壊滅させ、山口組の領土を拡大。四国、九州、中国、山陰地方と勢力を伸長させ、1960年代初めまでには36府県下、1万3000人(警察資料より)を擁する、日本最大組織へと急成長させるのです。敗戦後の組再興からわずか十余年のことですから、驚異的なことでした。