明治「大刈り込み」以来の「頂上作戦」
1964年の東京五輪開催を前に治安強化を打ち出した政府は、過激な抗争を引き起こすヤクザ組織の壊滅へと乗り出します。前年の1963年に警察当局が開始したのはあらゆる法令を駆使して、広域化する組織の首領を逮捕、主だったものを解散に追い込むという明治の「大刈り込み」以来の本格的なもので、「頂上作戦」(第一次)と呼ばれました(1968年までに捜査員延べ4万3800人、検挙組員238人という捜査史上でも空前の規模でした)。
ところが、田岡ひとりが組の解散に応じません。心臓病を患い長期入院したことで逮捕を免れたこともあるのですが、それ以上に先代から受け継いだ組織は自分ひとりが所有するものではなく、解散させることはできないという信念があったからでした。
解散を求めた警察だけでなく、経済界からも田岡に実業家への転身を薦める声もあったのは事実ですが、持論とする「行きどころのない若い衆の受け皿」として山口組の頭領を続けることを選びます。
面目を潰された警察当局は山口組の解体に躍起になり、「壊滅作戦」を発動させます。田岡が築いた港と芸能界、土建業における「資金源」を断つ作戦に出るのです。企業を経営する弟分たちは逮捕され、山口組からの離脱を宣誓させられます。
他組織と友好関係を結ぶようになったワケ
しかし、田岡から受けた恩義を忘れなかった資本家、もしくは田岡の子分たちからの報復を恐れた実業家たちは警察の目を盗み、ひそかに共存関係を維持します。病院から出た田岡は盛んな活動を再開し、「ひとり、警察に屈しなかった」ことでヤクザ業界にとどまらず、堅気(かたぎ)の市民からも“裏社会のドン”と目されることになるのですから、皮肉なものです。
こうして田岡は日本一有名なヤクザとなり、普通の主婦でさえ山口組を知っているという現象が起きます。
この頃から、田岡は自分が晩年を迎えたことを悟ったのか、「全国制覇」を標榜していた高度成長期の好戦性を控え始めます。山口組の覇権は遠隔統治といった形もとりながら、すでに東は東京の手前、西は沖縄まで及んでいたのですが、一転して他組織と友好関係を結ぶようになるのです。
ヤクザ同士がいがみ合っていてはいずれ当局に潰される、少なくとも権力に順応的な東の有力組織には「お上」の庇護があり、正面から対立するより、これと手を結ぶほうがコスパがよい、そうした判断もあったかもしれませんが、ともかく業界の「共存共栄」を志向します。