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メンバーとは食事に行かない

 昭和41年に始まり、半世紀以上も続く長寿番組になったのは、大喜利という「言葉の球投げ」で引っ張ってきたからだと思います。

 面白い言葉の球投げをするためには、おたがいに緊張感を保っていないといけません。だから、メンバーたちはふだん、一緒に食事に行ったりはしない。収録が終われば、はい、解散。“楽屋ドロボー”の(三遊亭)小遊三さんが帰り道に自動販売機の下に手を入れ、小銭を探しているのか、「ちびっこのどじまん」出身の山田たかおくんがいまもカラオケで歌っているのか、全然知らない(笑)。

『笑点』への出演は55年目を迎えた ©文藝春秋

 仲良くなりたくないのではなく、落語は一人芸ですから、立ち入ってはいけないという意識をみんな持っているのだと思います。相手が会わない間に何をしているのか、本番で探り探りやっていくわけです。

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『笑点』を立ち上げた談志さんの時代はもっと厳しくて、おたがい商売敵なわけですから「こういう場合はこうしたほうがいい」なんて教えませんでしたよね。

 僕が加入したのはそんな時代。放送開始から3年が経っていて、メンバーはみんな、すっかりキャラクターが確立していました。落語色を前面に出そうと、おなじみの長屋の住人になぞらえ、司会者が大家さん、(三遊亭)小円遊さんがキザな若旦那で、「僕のお誕生日は小豆じゃあないの。ダイヤモンドの混ぜご飯」なんてやってましたでしょう。「軽井沢のばあやはどうしているかしら」とかね。林家こん平さんは「田舎者の権助」で、歌丸さんが「小言幸兵衛」……。

 僕は、地元で愛される商店街に出店したスーパーマーケットみたいなもんで、特徴がない。そうしたら、前座の頃からかわいがってくださった談志さんが僕に言うわけですよ。「お前は与太郎をやってみな。発想がちょっと変わってて面白いから」。

 落語協会は古典落語をやっている人が多くて、(古今亭)志ん朝さんなんて言うまでもないですけど、談志さんも、僕と一緒に前座で働いていた(柳家)小三治もみんな本当にうまい。そばで見ていた僕は、とてもじゃないけれどこの中で頭角を現すのは無理だな、と思いました。一方、爆笑落語を得意とする噺家はかなり限られていて、それならおバカなキャラのほうが得なんじゃないかと、今日まで談志さんの言葉を守ってきました。