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 モーニング娘。のオーディションは翌2001年にも受け、このときも北海道エリアの審査を経て東京でのオーディションまで進むも、ちょうど高校で所属した軟式テニス部でも初めて全国大会に進出して日程が重なったため、そちらを選んだ。

 しかし、2002年に高校卒業を前にして、事務所のほうから「カントリー娘。っていうのがあるよ」と勧められ、両親も「行ってきなさい」と背中を押してくれた。こうして改めて面接や試験を受け、里田は18歳にして、モーニング娘。と同じくハロー!プロジェクト(ハロプロ)の一グループであるカントリー娘。の新メンバーとして芸能界にデビューする。

『色っぽい女 ~SEXY BABY~』(2002年)

プロ意識が生まれた「2つの出来事」

 先述のとおり当初は花畑牧場で動物の世話などの仕事をこなしつつ、牧場では毎日ライブショーを3公演行い、ファンが駆けつけた。だが、平日や雨の日ともなればさすがに熱心なファンも来るのは難しく、メンバー3人(里田加入時にはりんねとあさみがおり、2002年にりんねが卒業したのち翌年、みうなが新たに加入)に対して観客が2人だけということもあったらしい。並行して、ハロプロのコンサートやテレビ出演などの仕事のため東京とのあいだを往復しながらの生活を約1年続けたのち、活動拠点が東京に移ることになった。

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 東京で本格的に芸能活動を始めた里田は、2つの出来事からプロ意識に目覚めさせられる。まず最初は、当時、ハロプロのトップアイドルであった松浦亜弥のコンサートにカントリー娘。の3人でゲスト出演したことだった。このとき、里田たちは振り付けの先生から「お客さんを本当に盛り上げることがどういうことか、もっとよく考えなさい!」と叱咤され、プロの厳しさを思い知らされる。

 プロ意識に目覚めさせられたもうひとつの出来事は、里田が一人でテレビに出始めたことだった。これをきっかけに、彼女を見ようとコンサートに来てくれる人が増えていく。そんなファンたちのために頑張らなくてはと奮起するとともに、逆に自分にまったく興味のない人がいたら、その人を振り向かせようと考えるようにもなった。

引退を思いとどまった理由

 ただ、カントリー娘。としては、CDを出すとか単独コンサートを開くとかいった状況にはまったくなく、存続の危機に瀕していた。事務所やメンバー間で何度も話し合いが重ねられ、拠点を北海道に戻すという話も出た。ついには、里田以外のメンバーであるあさみとみうなが芸能界引退を決める。

 じつはこのとき、里田も引退するかどうか悩んだという。そこへある人から「辞めることは簡単だよ。でも、芸能界で何もしないで辞めて、あとから誰かが活躍しているのを見て、“あのとき、続けていればよかった”と後悔するのと、続けてみて“やっぱりダメだったか”という後悔、どっちがいい?」と言われた。ほかの二人がすでに次に進む道を決めていたのに対し、芸能関係の仕事以外は何も考えていなかった里田は、この言葉で引退を思いとどまる。