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五十嵐 父が最初に脳腫瘍の手術をした際は保険がおりたようです。ただ、その後の脳梗塞で倒れた際には保険に助けられた記憶がないので、保険がおりなかったか、または困窮して既に保険を解約してしまっていたのかもしれません。

 脳梗塞の発作のあと、父は1年以上職が見つからず貯金は底をつきました。親戚にお金を借りるあても無くなり、両親はやっと生活保護の申請を決心しました。

泣きながら借金の電話をしていた父

――執筆にあたって、当時のことをご家族に聞いたりしましたか?

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五十嵐 兄はすごく記憶力がいいので、色々と教えてくれました。生活保護を申請する少し前に、父が故郷の兄(伯父)に20万円の借金をするために「申し訳ない」と泣きながら電話をしていたことを初めて知りました。

――もう少し早く生活保護を受けることはできなかったのでしょうか。

五十嵐 生活保護を申請すると、扶養照会(自治体が申請者の親族に扶養できないか確認する仕組み)によって親族にバレることがハードルになっていたのだと思います。また、「最後まで自分で働いて何とかしたい」という気持ちが強かったんでしょう。父は当時、障害者認定も受けていませんでした。呂律が回らないなど言語障害が結構残っていたのですが、プライドもあったでしょうし、何より「認定を受けたら再就職がさらに難しくなる」と考えていたのだと思います。

©五十嵐タネコ/KADOKAWA

――生活保護を受給してから、どんな変化がありましたか?

五十嵐 生活が苦しくなるにつれて両親共にストレスと不安が強くなっていましたが、精神衛生的に良くなって私も兄もホッとしました。これまで通りの貧しい暮らしなら生活保護費で十分に賄えると安心したし、高校の授業料が免除になったので辞めずに済みました。

週1回しかお風呂に入れない貧しい生活

――貧困家庭になってから、どんなことが辛かったですか?

五十嵐 家にお風呂が無く、週1回しか銭湯に行けなかったのが一番キツかったです。幼い頃はそれが普通だと思ってましたが、小学生のとき「お風呂は週1回」と友達に言ってしまい、相手の反応を見て「うちは他の家と違うんだ」と気づき始めました。クラスメイトに「臭い」と悪口を言われたり、フケが出て困った時期もあったし、銭湯に行けない日には「水のいらないシャンプー」を試したこともありました。

 小学校1、2年生までは友達を自宅に招くことがありましたが、自分の家が狭くて汚いと気づいてからは呼ばなくなりました。

©五十嵐タネコ/KADOKAWA

――お友達の家と比較して、どんな違いを感じましたか?