10代の頃、バブル崩壊や家族の病気などで、一家に働ける人が誰もいなくなった漫画家の五十嵐タネコさん。高校時代から社会人として独立するまで生活保護で育った彼女が語る、その苦労や楽しみ、そして生活保護を批判する人たちに思うこととは……? インタビュー後編では、彼女が考える「生活保護の意義」について教えてもらった。(全2回の2回目/前編を読む)

『東京のど真ん中で、生活保護JKだった話』著者の五十嵐タネコさんが考える「生活保護」の意義とは?©五十嵐タネコ/KADOKAWA

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貧困でも青春を楽しむ方法

――苦しい生活のなかでも、楽しかった思い出はありますか?

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五十嵐タネコ(以下、五十嵐) 私はお父さんっ子だったので、よく一緒にトランプで遊んだのが楽しかったです。おもちゃはあまり買ってもらえなかったので、学校で配られた「算数セット」で遊んでいました。最近は「算数セットなんて使わないから不要」という声が多くて切ないのですが、私にとっては最高の遊び道具でした(笑)。

 中学時代は、クラブ活動を通して仲良くなった男女10名程のグループでよく遊んでいました。私の家が貧しいことを打ち明けたので、児童センターなどお金のかからない場所に行ったり、自転車で遠出したりしました。皆で地域のゴミ拾い活動に参加してマックカード500円分をもらったり、自治体イベントの運営スタッフをしたり、お金はなかったですが楽しい思い出は沢山できました。

――思春期に、家庭が貧困だと告白するのは勇気が必要だったのではないでしょうか。

五十嵐 小学生の頃に家の事情のせいでクラスメイトにからかわれた記憶があったのでドキドキしましたが、「この子たちなら大丈夫」と思えるくらい仲が良かったので話すことができました。

 友人達と地域活動に何度も参加するうちに、区の職員の柳さんという方に目をかけてもらえるようになりました。何かと相談に乗ってもらえたことは本当に幸運だったと思います。当時の私のような困っている子供達が、自治体の催しに参加することで地域とつながるきっかけができるといいなと思います。

人生を変えてくれた区役所職員の柳さん。コミックエッセイ『東京のど真ん中で、生活保護JKだった話』より ©五十嵐タネコ/KADOKAWA

――他にも、心の支えになっていた存在はありますか?

五十嵐 母の姉が近所で一人暮らしをしていて、週に1回もらい湯をさせてくれたり、いつも気にかけてくれました。伯母は母の病気を一番理解して心配していたのだと思います。私が漫画家を目指すために最初の就職先を辞めてからは、伯母の家で9年くらい間借りしていました。実の母がいわゆる「毒母」だったので、伯母はもう1人の母のような存在でした。

 また、高校2年生の時から付き合っていた今の夫にもとても支えてもらいました。私が「家族を一生面倒見ないといけない」と思い込んで苦しんでいたとき「自分の人生を大事にしたほうがいい」と勇気づけてくれました。

――五十嵐さんは入試の難易度の高い都立高校に通っていたそうですが、どうやって勉強していたのですか?