学生運動に無関係だった“ノンポリ学生”にも衝撃を与えた、1972年の「川口大三郎君事件」。川口君は、同じ早稲田の学生たちから実に8時間にも及ぶ凄惨なリンチを受けた末に殺された。わずか20歳の若すぎる死だった。事件は、当時の学生たちの共通のトラウマとして記憶されている。
この悲劇の内幕を詳述した傑作ルポ、樋田毅氏著『彼は早稲田で死んだ 大学構内リンチ殺人事件の永遠』(文藝春秋)がこのほど文庫化された。本作は2022年、第53回大宅壮一ノンフィクション賞を受賞、またこれを原案とした映画『ゲバルトの杜 彼は早稲田で死んだ』が5月25日に公開される(ユーロスペースほか)。同書を抜粋した記事を再公開する。(全2回の2回目/前編を読む 初出:2021年11月5日)
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川口君の遺体を確認した二葉さん
再び、二葉さんの「聞き書き」に戻る。
翌日(11月9日)の午前10時頃、下宿先に電話があった。「本富士警察署の者です」と名乗るので、戸惑った。後で聞くと、川口の遺体はこの日の早朝、東大病院の前で見つかっていたので、東大病院を管内に持つ本富士署から最初に電話があったのだ。本富士署の刑事は「二葉さんですね。ちょっと警察に来てもらわないといけないので、連絡を待ってください」と言った。その直後、牛込署からも電話がかかってきた。「すぐに牛込署へ来てくれるか」と言われた。僕は「川口のことですか?」と尋ねたけど、「来てくれたら、話す」と言うだけだった。僕は、胸が締め付けられるような思いで下宿を出て、電車とバスを乗り継いで牛込署へ向かった。
牛込署に着くと、取調室のような部屋に案内された。そこで、刑事に聞かれるまま、僕の前日の行動を話した。その後、刑事が「ちょっと、確認してほしい人がいる」と告げ、別室に連れて行かれた。
その部屋の片隅に、白っぽいシーツに覆われ、ベッドに寝かされている「人」がいた。遺体だと直感した。刑事が顔の部分のシーツの覆いを取り、「この人は、川口大三郎さんですか?」と尋ねた。
頬に赤紫になった傷があったけれど、その他の部分はきれいだった。僕は「間違いなく川口です」と答えた。朝、警察から電話があった時点で、川口は殺されたのだと思っていたので、川口の死に顔を見せられた時も、「自分は冷静だ」と、思い込もうとしていたはずだった。
お母さんお姉さんたちにひたすら頭を下げて
でも、そこから2時間ほど、僕の記憶は飛んでいる。たぶん、牛込署を出た後、茫然自失の状態で早稲田大学の方へ歩き、文学部の前を通って、さらに歩き続けていたのだと思う。高田馬場駅の近くを歩いていた時、我に返り、「川口のお姉さんに電話しなければ」と思い立った。川口はお姉さんと仲が良く、お姉さんの嫁ぎ先の川崎市の家に下宿し、彼女の夫が経営している建設業の会社でアルバイトもしていた。
公衆電話から電話すると、お姉さんがすぐに出て、「母もここへ来ています。母に代わります」と言った。すでに警察から連絡が入っていて、お母さんは伊東市の自宅から出てきていたのだと思った。僕はお母さんに「今からそちらへお伺いしてもいいですか?」と聞くと、お母さんは「ぜひ、来てください」と言ってくれた。僕は新宿から小田急線に乗り、登戸駅で降りて電話し、その案内に従って、初めてお姉さんの家を訪ねた。お姉さんのご主人もいた。