今から約半世紀前の1972年11月8日、一人の学生が早稲田大学文学部構内で、凄惨なリンチの末に殺された。被害者の名前を取って、のちに「川口大三郎君事件」と呼ばれるこの悲劇の内幕を詳述した傑作ルポ『彼は早稲田で死んだ 大学構内リンチ殺人事件の永遠』(文藝春秋)が、このほど文庫化された。
著者は事件当時、同じ早稲田の学生として、政治セクトによる「理不尽な暴力」に直面し、のちにジャーナリストとして活躍した樋田毅氏だ。本作は2022年、第53回大宅壮一ノンフィクション賞を受賞、またこれを原案とした映画『ゲバルトの杜 彼は早稲田で死んだ』が5月25日に公開される(ユーロスペースほか)。同書を抜粋した記事を再公開する。(全2回の1回目/後編を読む 初出:2021年11月5日)
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暴力を黙認していた文学部当局
キャンパス内で革マル派による暴力が頻発する状況に、文学部当局はどう対応していたのか。
一言でいえば、見て見ぬふりをしていた。これだけ暴力沙汰を起こしているにもかかわらず、文学部当局は革マル派の自治会を公認していたのだ。
当時、第一文学部と第二文学部は毎年1人1400円の自治会費(大学側は学会費と呼んでいた)を学生たちから授業料に上乗せして「代行徴収」し、革マル派の自治会に渡していた。
第一文学部の学生数は約4500人、第二文学部の学生数は約2000人だったので、計900万円余り。本部キャンパスにある商学部、社会科学部も同様の対応だった。
第一文学部の元教授は匿名を条件に、こう打ち明ける。
「当時は、文学部だけでなく、早稲田大学の本部、各学部の教授会が革マル派と比較的良好な関係にあった。他の政治セクトよりはマシという意味でだが、癒着状態にあったことは認めざるを得ない。だから、川口大三郎君の事件が起きて、我々は痛切に責任を感じた。革マル派の自治会の歴代委員長は、他のセクトの学生たちと比べると、約束したことは守った。田中敏夫君も、その前の委員長たちも、我々に対する時は言葉遣いも紳士的で、つまり、話が通じた。大学を管理する側にとって、好都合な面があった。しかし、事件後は、革マル派との癒着状態から脱することに奔走した。革マル派との縁を切ることは、文学部教授会の歴代執行部の共通した認識となった。民青の学生たちについても、共産党員の教授たちと通じている面があるため、別の意味で警戒の対象となっていた」
大学当局は、キャンパスの「暴力支配」を黙認することで、革マル派に学内の秩序を維持するための「番犬」の役割を期待していたのだろう。