早稲田祭の2日後に起きた「川口大三郎君虐殺事件」
早稲田祭が終わった2日後、11月8日に川口大三郎君の虐殺事件が起きた。朝日新聞の11月9日付の夕刊は、事件の一報を以下の書き出しで報じていた。
「9日早朝、東京都文京区の東大病院アーケード下で若い男の死体がみつかった。本富士署で調べたところ、全身にリンチにあったらしい内出血の跡があり、早大第一文学部二年川口大三郎君(20)=下宿先、川崎市多摩区宿河原=とわかった。警視庁公安一課は、過激派のなかのトラブルから早大の教室でリンチにあって殺され、同病院に運ばれたとみて同署に殺人、死体遺棄の捜査本部を置いた。」
記事には、東大病院の遺体遺棄現場付近の写真とともに、「早大生 リンチで殺される」「革マル派が犯行発表『戦車反対集会でスパイ』」「教室で犯行 東大に遺棄」「早大教授ら 現場へ行ったが警察には届けず」などの見出しが付けられていた。事件が発覚した経緯や革マル派の対応などについては以下のように書かれていた。
教室に連れ込まれたので、文学部教授に連絡したが…
「同日午前7時20分ごろ牛込署に早大生から『友人の川口君がいなくなった。8日夜、早大構内でトラブルがあったようで、このトラブルに関係したらしい』と110番で連絡があった。同本部は川崎市に住む川口君の姉に死体の写真をみせたところ、『本人だと思う』といっており、同本部は川口君に間違いないとしている。(中略)同本部は友人の話などから犯行場所は早大構内とみている。川口君は8日昼ごろ、セーターにGパン姿で下宿先を出たままだった、という。」
「警察当局の調べによると川口君は8日午後2時ごろ、早大文学部前の校庭で学友3人と談笑していた。そのとき、革マル系らしい学生4、5人が近づき、川口君を近くの文学部127番教室に連れこんだ。川口君といっしょにいた学友が午後3時ごろ文学部教授に連絡し、127番教室に行ったところ、同教室入口で革マル系学生4、5人がピケ(ピケット=人間の盾=筆者)を張り、はいれなかったという。さらに午後5時、午後10時の2回にわたり、第一文学部教授らが同教室に近づいたが、ピケ隊の一人は『11時半ごろに車が来たらピケはやめる』といい、9日午前零時半ごろ、再度同教室に行ってみると学生らの姿は消えていた。
この間、大学側から警察への届け出はまったくなく、9日朝も警察が問合わせるまで大学側は連絡もしてこなかった。同教室内は机などが乱れて格闘したあとがあり、隣の128番教室ではタタミ2枚分ぐらいにわたりコンクリートの床を水で洗った形跡があった。」