『ゆれる』『ディア・ドクター』『すばらしき世界』など、数々の話題作を手掛けてきた映画監督の西川美和さんは、『永い言い訳』などが直木賞候補に選ばれるなど文筆の世界でも名文家として知られています。そんな西川さんの最新エッセイ『ハコウマに乗って』が刊行されました。本書は2018年から23年までの5年間、スポーツや時事問題などを主なテーマに、第一線で活躍する映画監督の日常を時にユーモラスに、時に厳しい眼差しで綴った、これまでのエッセイ集とはひと味もふた味も違った一冊です。ここでは『ハコウマに乗って』より、「まえがき」を抜粋して紹介します。
本書は、「Sports Graphic Number」2018年12月6日号から2020年8月20日号までの連載「遠きにありて」と、「文藝春秋」2021年3月号から2023年12月号までの連載「ハコウマに乗って」とを併せて収録したものである。
「Number」も「文藝春秋」も、多くは時事的な話題が盛り込まれている雑誌なので、その片隅に載るエッセイとはいえ、私も無意識にその時々に社会で起きたことを取り上げがちだった。冒頭の一篇は2018年の終わりごろに書いたものだが、「スーパーボランティアの尾畠さん」の話題から始まっていて、読者の方も面食らうような時の隔たりを感じるのではないだろうか。その後、人類がほぼ経験したことのない大規模パンデミックが起こるだなんて、子供を救った尾畠さんのニュースをほのぼのと眺めていた頃はまるで予想もしなかった。
コロナ禍においても、月に1度、その都度の実感で書いていたので、状況に応じて緊張感や思いも少しずつ変わっていったようだ。ワクチンや特効薬もなく見通しの立たないころは、行動制限についても敏感になっていたり、もはや世界が回復を見ないかのような悲壮感も滲んでおり、今になってみれば自分でも少し奇異にも読めるが、それだけこの5年間というのは、誰にも未来予想のつきづらい、不可思議な流れの中にあったのだろうとも思う。
「Number」の連載は2015年から始まって、2018年11月までの3年分は以前すでに1度単行本にまとめてられていた(『遠きにありて』文藝春秋刊)。その後編集部と、2020年夏までは連載を続け、東京五輪について書いて区切りにする約束をしたはずだったのだが、全世界的な感染拡大によって大会が1年先に延期され、結局、実際に開催された2021年の無観客五輪について私は綴ることなく連載を離れた。もともと唯一の趣味がスポーツ観戦だということから誘ってもらった連載だったが、正直なところ、延期された東京五輪については文章を寄せる自信がなくなっていたのだ。「Number」を手に取るスポーツ愛好家たちにとっても、参加する競技者たちにとっても、読んで辛くなるような言葉を重ねてしまいかねない気がしていた。プレイヤーたちに罪はないが、用意されたフィールドが汚くぬかるみすぎているように思った。