もちろん、疑惑がすべて晴れたわけではない。大谷選手自身も、当分の間は「片付かない気分」で野球を続けざるを得ないだろう。パフォーマンスに多少の影響が出てくるのも仕方がない。いかに超人的な選手といえども、心身に受けたダメージは相当に大きいはずだ。
MLBには、いくつかの黒歴史がある。ブラックソックス事件やピート・ローズの野球賭博事件、そして薬物に関するスキャンダル(ステロイドの使用で本塁打が異常量産された事件やコカイン濫用事件)などは、だれしも耳にしたことがあるはずだ。
バリー・ボンズやサミー・ソーサの関わったステロイドの問題、ドワイト・グッデン、ダリル・ストロベリー、ティム・レインズらが関与したとされるコカインの問題については、繁雑を避けるために省略し、ここでは賭博絡みの事件に話を絞ることにしよう。
最初に指摘したいのは、ブラックソックス事件やピート・ローズ事件に対して下された裁定に比べると、大谷翔平に対するMLB機構の視線が、ずっと柔らかく感じられることだ。所属するドジャース側も、出場停止処分や戒告処分などを、大谷選手に科していない。暫定的な結論からいうと、「大谷選手は無辜の被害者であり、不正行為は一切働いていない、ただ一点、金銭管理の面で油断や不注意があったことは否めない」とするのが、球団並びに機構側の基本的な見解ではないかと思う。
MLBの姿勢を変えたブラックソックス事件
ギャンブルに対してMLBがきびしい眼を向けるようになったのは、1919年に起こった〈ブラックソックス事件〉が契機といって差し支えないだろう。
それ以前のアメリカ野球界には、不正行為やギャンブルを必要悪と見なす空気が濃厚だった。ジョン・マグロー、タイ・カッブ、トリス・スピーカーといった名選手も汚染されていたとされるが、なにしろ当時は、暴れん坊やホラ吹きが幅を利かせた世界だ。
1904年に年間349奪三振を記録した怪人ルーブ・ウォッデル投手などは、酒場での支払いに窮するとボールを取り出し、「これは、あのサイ・ヤングと延長20回を投げ合って勝ったときの記念球だ」といって、借金のカタに置いていた。「記念球」は、アメリカ全土で何百個もばらまかれたらしい。
ブラックソックス事件は、ワールドシリーズの八百長事件だった。ア・リーグの覇者シカゴ・ホワイトソックスに属する選手の一部が賭博組織の誘惑を受け、劣勢を伝えられたシンシナティ・レッズに3勝5敗(当時は9戦勝負)で敗れ去ったのだ。
「アンラッキー・エイト(非運の8人)」と呼ばれた選手のなかには、通算打率3割5分6厘(史上第3位)の名外野手シューレス・ジョー・ジャクソンも混じっていた。
彼が本当に八百長に関与していたかどうかは、いまだに判然としないのだが、球聖タイ・カッブや巨人ロジャース・ホーンズビーと並び称されたシューレス・ジョーの永久追放処分に、世間は大きなショックを受けた。
あの有名な「嘘だといってよ、ジョー」という少年の叫びが喋々されたのも、このときの話だ。査問を受けたジョーに向かって、少年が悲痛な声を絞り出したとされているのだが、これはどうやら、後世の著述家エリオット・アジノフ(この事件を描いた1988年公開の映画『エイトメン・アウト』の原作者)が創造した台詞らしい。ただ、野球好きの間で、それに共鳴する気分が濃厚だったことは否みがたい。