『DJヒロヒト』(高橋源一郎 著)新潮社

 僕らの世代のマスターピースがここに誕生した。いや、長大な続編の予感もするので「生まれつつある」と言い換えよう。

「僕ら」とは、戦争へ行ったお父さんや叔父さんたちを尻目に、アメリカン・ポップを吸い込んで大きくなった世代である。僕らはすでに死に始めている。志村けんをはじめ、大森一樹、高橋幸宏、坂本龍一、大滝詠一、八代亜紀……威勢のいい表現者が次々と逝ってしまった。居残った者たちにとっては正念場だ。

 40年ほど前、純文学にスプレー缶で〈ポップ〉を吹き付けるような作品でデビューした高橋源一郎は、大胆にも本作で昭和天皇を担ぎ出した。「すでに戦前」といわれるヤバイご時世に、帝国日本のおぞましき出来事を引きずり出して、その脇に、しずかにエンペラーの御姿を配する。そのヒロヒトが、実にナイスガイなのである。

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 登場するのは、史実を偽らない陛下その人である。軍人だった僕の祖父も崇拝していたあの陛下が、昭和の暗部の物語に付き添い、そして最後に(このネタはバラすまい)、心情左翼であるはずの僕の目頭を潤ませるような行いをするのだ。ほんと、泣けちまった。

 DJとは、この作家が選んだ小説の方法でもあるといえる。インターネットがあらゆる時代への接続を可能にした現在、過去の人物や作品の語りを自由に「流す」書き方もアリではないか。ポストモダン文学の時代に「間テクスト性」とかいう概念が流行ったけれど、どんなテクストも相互に織り込めるのであれば、それらを自由にカット&リミックスする文学もアリではないか。

 ここで金子フミコに語らせたら、ピョーンと飛んで風の谷のナウシカさんにご登場願う。「やっぱりいいわ、ダフト・パンク」「うれしいなあ。『DJダン吉の冒険ナイト』」みたいなノリで、自他の違いも、虚実の違いも踏み越えて、もっぱら繁殖するテクスト。「ポスト・トゥルースの時代」にふさわしいDJ文学の誕生を祝したい。

 もう一点、この小説には筋(プロット)がないという点も重要だ。つまり動きが生物的。冒頭に、ヒロヒトと南方熊楠とが、粘菌の美しさへの感動を共有するシーンがある。その素晴らしい生き物の運動を真似るみたいに、この小説は、だらだら、ざわざわと進む。

 命の世界には、美と醜が同居する。権力も暴力もはびこる。ヒロヒトの20代から戦中の40代にかけての日本は、戦後っ子の理解を超えた暗さに支配された。震災に乗じた虐殺。無政府主義者の殺戮。大陸での蛮行。女たちの受難。それらの諸事実を、かなりの数の作家の実録にたよりつつ、具体的な精神の葛藤まで織り込んでいく作者の筆致は思いのほか淡々として、そのぶん心に沁みてくる。これで終わりではあるまい。この先がますます楽しみになってきた。

たかはしげんいちろう/1951年生まれ。81年『さようなら、ギャングたち』で群像新人長篇小説賞優秀作受賞。88年『優雅で感傷的な日本野球』で三島由紀夫賞受賞。2002年『日本文学盛衰史』で伊藤整文学賞受賞。著書に『ニッポンの小説』、『「悪」と戦う』、『恋する原発』他多数。
 

さとうよしあき/1950年生まれ。米文学、ポピュラー音楽研究家。東大名誉教授。トマス・ピンチョン『重力の虹』など翻訳多数。