「2123年10月1日ここは九州地方の山おくもうだれもいないばしょ」に残されたひとりマシン化した人物が、今はもう亡くなってしまった家族ひとりひとりの「かぞく史」を書いていく、という話だ。
この世界では大気汚染や災害などにより人間の数は大きく減少している。
食事や排泄など生きるための行いが苦痛で希死念慮を抱えている「わたし」は、作中の社会で施行されている「自さつそち」を受けようとしたが、代わりに父親の要望に押し切られるかたちで、身体的苦痛から逃れることのできる「ゆう合手じゅつ」を受けることになる。この手術で、「からだのほぼすべてをマシン化」した「わたし」は手術を受けた25歳の時から見た目が変わらない。
老いることも疲れることもなくなった「わたし」は、なにかの歯車がそれまでとぐわっとかたちを変えたまま噛み合ってしまったような気まずさと充実感の混在する家庭生活の中で、甥にあたる「シンちゃん」と恋人の関係になったり、自身と違って歳を取っていく家族を看取るようになっていく。
「かぞく史」を書き終えた「わたし」は、元秋田県にある「シンニッポン」という、「生まれてすぐに脳と人工知能の融合」した「新しい人類」が暮らす街にたどり着く。
その場所で「わたし」は、「トムラさん」という、真っ当さの象徴のような人物に「かぞく史」の話をし、「トムラさん」にケアされるようなかたちで「シンちゃん」にしてしまったことを懺悔していく。そして「トムラさん」はある提案をするのだが――。
特徴としてまず目に入るのは、「かぞく史」を書く「わたし」によるひらがなの多い文体だ。「わたし」によると画数の多い漢字などはわずらわしく、「めんどくさいものはだいたいひらがなでかいてしまおうとおもってます」とのことらしい。ひらがなの柔らかさ、あるいはそこに感じてしまう幼さ、弱さのようなものがこの小説の雰囲気を作っている。
その幼い語りによって、ボーカロイドや将棋を愛する「わたし」のエピソードや家族との関係、「わたし」のマシン化にまつわる家族の反応が、喋るように書かれていく中であちこちに飛んでいく。他者の生活にひそむ底知れない一貫した支離滅裂さ、とでもいうようなものに読者は触れることができる。
その取り留めのなさはそのまま、人生というものの豊かさと言っていいかもしれない。
なにか特別なことが起きたから豊かなのだ、というわけではない。誰の生にも――本人がたとえそれを話すことができなくても、誰かが記憶していれば話すことができるという点で――言葉が詰まっているということの豊かさ、その恐ろしいような凄さがこの小説には満ちている。
まみやかい/1992年、大分県出身。「ここはすべての夜明けまえ」にて第11回ハヤカワSFコンテスト特別賞を受賞し、デビュー。
おおまえあお/1992年、兵庫県生まれ。近刊『チワワ・シンドローム』『ピン芸人、高崎犬彦』など、著書多数。