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うまくいかないレースほど書きやすい

――1冊まるまる、箱根駅伝の本選レースが描かれる下巻。10区間、217.1キロを走るレースを想像で書くのは大変な作業だったと思われます。事前に「どこで何が起こる」というような設定はされていたのですか?

池井戸 断片的なイメージのようなものはありますが、予定調和にはしたくないので、あまり詳しい設定はしません。

 

 小説で大切なのはまず、世界観というか枠組みなんです。それさえしっかりしていれば、物語は自然に動き出していきます。プロットを立て、その場その場で起こることを最初に準備しておく書き方では、どうしても辻褄合わせのようになってしまい、結果、展開が嘘っぽくなる気がします。だいたい、人間の頭で1000枚もの長大なストーリー展開を、書く前に網羅できるわけがない。書いていれば必ず、想定していなかった登場人物の動きやセリフが飛び出して、物語は予想外のほうへと動いていきます。小説は生き物と同じなんです。自分もランナーと同じように走りながら書いていくほうがいいと思っています。

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 何が起きるかは、それを書くときに「考える」というか、「わかる」感覚です。勝手に進んでいく。物語の次の展開は、物語が教えてくれる。伏線も考えて張るのではなく、それまでに書いていたことが後になると、最初から考えて張った伏線のように回収されていきます。たまに書いている本人が驚くような展開もあって、決して予定調和になりません。
 
――まさに“筋書きのないドラマ”に。

池井戸 書き始める前、「こんな場面があったらいいな」と勝手なイメージを膨らませていたものもありましたが、そうは問屋が卸さないとばかり、連載中、6区を終えた時点で在庫が尽きました。箱根駅伝というスケールの前に、うっちゃられた感じです。

 でも、とにかく書き続けなければならない。ショー・マスト・ゴー・オンです。ランナーは1区走ったら終わりですが、僕は10区を独走です(笑)。7区から先は、真剣勝負で小説と向き合う展開で、こんなに気力と体力を使った小説ははじめてかもしれません。
 
――書いていて気分が乗ったのは、どの場面ですか? 逆に、難しかったのは。

池井戸 トラブルやアクシデントが起こる場面は、書いていても面白いですよね。難しいのは案外、優秀なランナーが調子よく走っている場面だったりします。

 あとは、屈折していたり悩みを抱えたりしている人物も書きやすい。小説は、善人や、成功していて順調な人を書くよりも、苦労していたり失敗したり、うまくいかない側の描写のほうが圧倒的に書きやすいです。きっと、その人の背負ったものや心の中の葛藤が、書き手の興味をひくからだと思います。それは同時に、読者が読みたい場面でもあるはずです。