――すべてをコントローラブルに演出するのではなく、俳優の身体性や偶発性を活かす部分が大きいのでしょうか?
濵口 いいものって究極的には偶然にしか映らないと思うんです。その偶然を逃さず捉えなければいけない。
そもそも映画製作はある種の偶然の連続であって、なかには悪い偶然もある。それを良い偶然に絞っていくための準備をすることが重要なんです。
物語や映画を作る上で必要な“前提”
――諏訪敦彦監督(『風の電話』〔2020年〕など。即興的な演出手法で知られる)に取材した際、「映画は自然と人間が同列であることを表現してしまうメディアであり、スタジオのセット撮影ではなく自然のなかに人間を置いたときに〈俳優もまた自然である〉ということが浮き彫りになる」とおっしゃっていました。
この映画はまさに自然と人間の関係がキーになっていると思いますが…。
濵口 自然のなかに俳優を置くとしたら、俳優が普段存在している環境とはちがう空間に置かれて戸惑う――その状態こそがもっとも自然です。
で、その戸惑いを映画の力にできるなら素晴らしいけれど、僕には正直、そこまで俳優と自然の調和を信頼できないところもあります。
自然と人間にちがいがあるとすれば、人間は意志によって『これは良い』『これは良くない』と選択するわけです。動物ももちろん選択はするけれど、人間の場合は記憶に左右される部分が大きくて、一つひとつの選択が自分のなかに堆積されていく。
そうするなかで、より良いものを選びたいという精神が人間と自然を切り分けていくんじゃないかと思います。なので、そうした人間が自然の中に調和して存在することは基本的にはあり得ない、という前提で、物語や映画を作ることが必要だと思います。
誰もが対立ではなく並立している登場人物たち
――この映画には、そうして自然と切り分けられた人間と、一方にどこか自然と融合していくような人間が両方映し出されています。
濵口 ええ、その両方をひとつのフレームのなかに収めたいという考えがあり、映画のなかでは巧と(グランピング施設を設立しようとする芸能事務所の)高橋がその両極のようになっています。
――両極と言われましたが、この映画の面白いところは、土地の住民たちとグランピング施設の開発者たちを自然と非自然、田舎と都会という対立概念ではなく、両者ともにその境界上にいる存在と捉えていることです。