「彼」とは、誰なのか
さらに2004年2月、週刊朝日に連載した森達也が単行本『下山事件(シモヤマ・ケース)』(新潮社)を出版した。この本はその内容のほとんどが前出の『葬られた夏』に重複するもので、特に目新しさはない。だが森達也は、この本の中で唯一、「Y氏」なる人物の実名が「矢板玄(やいた・くろし)」であることを暴露している。
個々の内容の相違はともかくとして、週刊朝日→『葬られた夏』→『下山事件』と続く一連の報道には、明らかな共通点がある。すべてが「彼」なる人物の大叔母の証言を発端に、「彼」の証言を軸にして、「Y氏」を実行犯とする仮説に基づいて全体が構成されているということだ。確かに2冊の単行本に関してはかなりの追加取材が行なわれ、肉付けがなされてはいるが、そのほとんどに「仮説に誘導する」という意図が見え隠れしている。つまり、「彼」と呼ばれる人物の取材と証言なくしては、一連の報道はいずれも「存在し得なかった」ということになる。
ところがすべての文中に登場する「彼」の証言の部分を読んでみると、理論を展開する上で根幹をなす重要な部分であるにもかかわらず、きわめて不自然な記述が多い。まず、「彼」の正体のみならずその実在すらも明らかになっていない。さらにその証言に関しては明らかに虚実が入りまじっている、と断ぜざるを得ない。
なぜそう断言できるのか。もちろん、確固たる理由がある。なぜなら一連の報道の中の「彼」こそは、実は「私」なのである。つまり「彼」の証言はもとより、「彼」の大叔母の証言、「彼」の母の証言、さらに「Y氏」のインタビューの内容を正確に知る者は、「私」しか存在しないのだ。
「私」の職業はジャーナリストである。その「私」が、なぜいままで下山事件について語らなかったのか。その理由は「私」をはじめ「私」の祖父、大叔母、母親などの血族が、ある意味で下山事件の当事者であったからに他ならない。
だが、いま、「私」は語るべき時が訪れたことを知り、心を固めた。以下に書くことは、「私」が知り得る限りの、我が血族と下山事件に関する真実である。