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謎を残したまま「週刊朝日」の連載は終了

 さらに2ページ後に、「彼」が大叔母の証言を確かめるために「Y氏」を訪ねる様子として次のように続く。

〈Y氏は十畳ほどある和室の中央に正座していた。がっしりとした体躯で背は高く、眼光は鋭い。傍らには日本刀が置かれていた。その鋭い眼差(まなざ)しにやや臆しながらも、「彼」は向き合って腰をおろした。

「お前は何者だ」

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「以前お世話になった者の孫です」

「証明するものはあるか」

「彼」は自動車免許証を取り出して、見せた〉

 そもそも「Y氏」とは何者なのか。週刊朝日の記事は、回を追うごとにその正体を明らかにしていく。「Y氏」が代表を務める組織の名は、「亜細亜(アジア)産業」。その本拠地は下山総裁が行方を絶った三越本店の近くにあり、別名「Y機関」とも呼ばれた。「鹿地(かじ)事件」(左翼作家として知られる鹿地亘[わたる]が拉致監禁された事件)の実行犯として有名なGHQの「キャノン機関」のキャノン中佐と深い関わりを持ち、その下請け機関として数々の非合法工作に関与していた――。

 だが記事は結局、確証を得ることなく謎を残したまま連載を終えている。

1949年7月6日、失跡した下山定則国鉄総裁のれき死体が常磐線綾瀬駅付近の東武線と常磐線の立体交差地点で発見された ©共同通信社

3年後、再び「Y氏」なる人物がマスコミに登場

 これまでにも半世紀にわたる一連の下山報道の中で、実行犯とされる人物、もしくは組織の名は数多く浮上している。事件当初の労組左派説に始まり、朝鮮人説、GHQ説、CIA(米中央情報局)説に至るまで、ありとあらゆる手法で実行犯の特定が試みられ、時代の流れの中に消えていった。だが週刊朝日の「実行犯→Y氏説」は、過去の数多くの報道とは異なり、一過性のものでは終わらなかった。

 次に「Y氏」なる人物がマスコミに登場したのは、3年後だった。2002年12月、週刊朝日の連載に取材協力した社員記者の諸永裕司(もろながゆうじ)が単行本『葬られた夏 追跡下山事件』(朝日新聞社)を発表。ここでもやはり「彼」の証言を元に、亜細亜産業の「Y氏」を軸にキャノン機関の元工作員をアメリカにまで追跡し、事件の真相に迫ることを試みている。