〈“戦後史最大のミステリー”として、いまなお多くの謎につつまれる占領期最大の未解決事件「下山事件」〉。今年3月に「NHKスペシャル」で取り上げられ、あらためて話題を呼んだ。「あの事件をやったのはね、もしかしたら、兄さんかもしれない」。祖父についての親族の証言を契機に「下山事件」に新しい光を当てた作家・柴田哲孝氏の著書『下山事件 最後の証言 完全版』(祥伝社文庫)より一部を抜粋して紹介する。(全2回の2回目/前編から続く)
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祖父の後ろ姿を追っていた幼少期の記憶
かすかな記憶がある。
私は泣きながら、必死に祖父の後ろ姿を追っていた。
季節は、初冬だった。まだ生まれたばかりの弟が母の背に負ぶわれていた頃だから、私はおそらく3歳にはなっていなかったと思う。午前中の穏やかな日射しが、街並を淡い色に染めていたことを覚えている。
祖父の背中は遥か遠くにあった。私は、何かを叫んでいた。祖父の名を呼んでいたのかもしれない。だがその声は祖父の耳には届かず、大人と子供の足の違いもあって、私と祖父の距離は少しずつ遠ざかっていった。
やがて大通りに出ると、祖父は通りかかったタクシーを拾い、その姿が車中に消えて走り去った。私はその場に一人取り残された。すでに家からは遠く、見憶えのない街の風景の中で、私はただ祖父の名を呼びながら泣き続けていた。その姿を出入りの御用聞きが見つけ、家に連れ帰ってくれたのは、それから小一時間も経ってからだった。家では母や祖母がいなくなった私を探し、大騒ぎになっていた。
出掛けようとする祖父をいつも邪魔していた
当時、祖父は吉祥寺の自宅を事務所にして、鉄道模型や釣り道具を扱う小さな貿易会社を経営していた。日のあたる居間の一角に置かれたデスクが、祖父の仕事場だった。私はいつも、その周囲で遊んでいた。祖父の打つタイプライターの軽やかな音が、いまも耳の奥に残っている。
祖父が商談などのために家を空けるのは、多くてもせいぜい週に一度か二度のことだったと思う。だがそのたびに私は何かしらの騒動を起こし、家人の手を焼かせた。祖父が出掛けるのを見付ければ、私は必ずその足にしがみついて邪魔をした。外出用のアメリカ製の靴を隠してしまったこともある。以来、祖父は、私に見つからないように勝手口から忍び足で出掛けるようになった。おそらくその日、私は窓から外を歩く祖父の姿を見つけ、母や祖母が目を離した隙にその後を追ったのだろう。