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 あの頃の私にとって、祖父は自分の世界の大半を占める大きな存在だった。それこそ朝から晩まで、片時も離れずに祖父を独占していなければ気がすまなかった。一種の守護神のようなものであったのかもしれない。時には仕事の邪魔をして膝の上で戯れ、腕の中で眠り、祖父が歩けば親鶏に従う雛のようにその後についてまわった。祖父はそんな私を、いつも優しい眼差しで見守ってくれた。

 私が小学生になっても、祖父は男として最も身近な手本であり、良き遊び相手だった。野球、釣り、竹馬、将棋といった当時の男の子の嗜みは、すべて祖父が教えてくれた記憶がある。

祖父・柴田宏 私の英雄「ジイ君」

 私と遊ぶ時の祖父は、まるで少年のようだった。近所の遊び仲間が集まって野球が始まると、よく祖父が飛び入りで参加した。祖父は、必ずピッチャーをやらされた。その剛速球とカーブは有名で、少年たちを相手に三振の山を築いた。空地の先の家のガラスを割るほどの大きなホームランを打ったこともある。祖父は、近所の少年たちの間でも英雄だった。

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 柴田宏。それが私の祖父の名だ。宏と書いて、ユタカと読む。私や弟、近所の少年たちは、その祖父を「ジイ君」と呼んでいた。

 祖父は長身だった。痩軀(そうく)だが肩幅が広く、大きな背中をしていた。私はその背中が好きだった。いま振り返ると、私は常に祖父の背中を見つめ、その後ろ姿を追うことによって成長してきたのではないかと思うことがある。もし私が祖父の存在に対して違和感を覚えることがあるとすれば、やがては祖父にも“死”という絶対的な瞬間が訪れるという現実だけだった。

祖父の頑固さが最後には命取りとなった

 だが、その時は意外に早くやってきた。ある日、たまたま私と中野の街を歩いている時に、突然祖父が腹痛を訴え、その場に崩れるように倒れた。近くの病院に担ぎ込まれ、手術を受けた。患部を開いてみると、手の施しようがないほどの末期の癌であることがわかった。

 祖父は自分の体のことを知っていたのではないかと思う。虫歯を自分で抜いてしまうほどの医者嫌いの人だった。おそらく、倒れる何ヵ月も以前から耐え難いほどの苦痛があったはずだ。家族に心配をかけまいとしたのか。それとも自分の体力を過信していたのか。私は少年時代、よく祖父の戦時中の武勇伝を聞かされて育った。祖父が戦地で度重なる窮地を生きながらえたのも精神力であるとするならば、その頑固さが最後には命取りとなった。

 昭和45年(1970)7月1日、1年以上もの闘病生活の末に祖父は息を引き取った。享年69。特に祖父が最後の数ヵ月に見せた凄まじいほどの生に対する執念は、私に対して「男とはいかに戦うべきか」を無言のうちに教えようとしていたかのようだった。