まだ14歳になる直前の多感な年頃だった私にとって、祖父の死は単なる肉親の死という枠では語りつくせない意味を含んでいた。私は生涯、祖父の死の瞬間を忘れないだろう。それは壮絶なまでの価値観の消滅であり、同時に私が“少年”という輝かしくも平穏な時代に訣別した瞬間でもあった。
「もしかしたら、兄さんかもしれない……」
以来、毎年夏になると、我が家では祖父の法要が恒例となった。祖父は柴田家の9代目の当主であり、7人兄弟の長兄でもあった。節目の回忌の折には横浜の菩提寺に親類縁者が数十人集まったこともある。
平成3年(1991年)7月、その年には祖父の23回忌にあたる法要があった。この時は私の家族の他に祖父の末の妹の飯島夫妻などが参加しただけのごく身内の法要で、その後、中華街に出て馴染みの店でささやかな食事会が行なわれた。
その席で、祖父の思い出話が進むうちに、酒の勢いも手伝ってか突然、大叔母の飯島寿恵子(すえこ)が奇妙なことを口走り始めた。
「宏兄さんは、優しい人だったよね。私には、父親みたいな人だったし……。でもね、時々私、思うことがあるのよ。本当は兄さんほど恐ろしい人は、いないんじゃないかって……」
私は箸を持つ手を止めた。大叔母が何を言わんとしているのか、最初は見当もつかなかった。周囲では私と寿恵子の様子に気付かずに、話がはずんでいる。
「いったい、どうしたのさ。急に……」
私はあえて軽口をたたくように訊いた。だがその時の寿恵子は、尋常な様子ではなかった。目には涙が溜まり、手がかすかに震えていた。
「あんた、下山事件て聞いたことあるだろう。あれは自殺だとかなんとかいろいろ言われてるけどね。本当は、殺されたんだよ……」
だが当時の私は、「下山事件」に関してほとんど知識を持っていなかった。昭和24年夏に初代国鉄総裁下山定則が三越本店で行方を絶ち、翌未明に五反野の線路上で轢死体で発見されたこと。自他殺両方の説があるが、事件は事実上迷宮入りしていること。私の下山事件の知識はその程度のものでしかなかった。
「まあ、一応は知ってるよ。それがどうかしたの?」
私は平静を装っていた。だが、次に寿恵子が何を言おうとしているのか、漠然と予想していたような気もする。
「あの事件をやったのはね、もしかしたら、兄さんかもしれない……」
その一言がすべての発端だった。