1ページ目から読む
2/5ページ目

自殺か他殺か…警察内部までも二分

 当時、下山総裁は国鉄合理化に伴う10万人規模の人員整理の渦中にあり、その責任者としてきわめて微妙な立場に置かれていた。事件前日の7月4日には第一次人員整理者3万700人の名簿を発表。労働組合との団体交渉の矢面に立ち、「国鉄合理化のために、断乎として(人員整理を)実施する」と宣告したばかりだった。

 こうした中での下山総裁の死は、当初からさまざまな憶測を呼んだ。人員整理を苦にした自殺だったのか。それとも他殺だったのか。もし他殺だとするならば、人員整理に反対する労組左派による暗殺なのか。もしくは日米反動勢力(GHQ→右翼組織)による破壊工作だったのか。後にこれらの憶測は報道や世論のみならず、警察内部までも二分する(捜査一課は自殺説。捜査二課は他殺説)一大論争にまで発展した。

昭和24年7月6日、轢死体で発見された下山定則総裁

 だが警視庁は事件から1ヵ月後の8月4日、捜査本部の合同会議において“自殺”と判定。しかし公式発表はせず、その報告書、『下山国鉄総裁事件捜査報告』(以降『下山白書』と表記)をおよそ半年後の昭和25年2月に雑誌「改造」と「文藝春秋」の両誌に非公式に流出させ、一方的に事件を収束させた。以後、下山事件はその背景や実行犯の特定はもとより、自他殺すら明らかにならぬまま捜査は打ち切られ、事実上の迷宮入りとなって現在に至っている。

ADVERTISEMENT

戦後日本の転換期となった昭和24年

 事件の起きた昭和24年は、ある意味で戦後の日本の転換期となる年でもあった。1月には総選挙で民主自由党が圧勝し、単独過半数の264議席を獲得して第三次吉田茂内閣が発足。2月には米銀行家のジョセフ・ドッジが公使として来日し、「経済安定九原則」を基盤としたいわゆる“ドッジ・ライン”が実行に移された。国鉄が10万人規模の大量解雇を余儀なくされた定員法(行政機関職員定員法)もその経緯の一端である。

 こうした社会情勢の中で、7月、8月の夏場には国鉄にまつわる怪事件が頻発した。7月5日の下山事件を皮切りに、その10日後には無人電車が暴走して多くの死傷者を出した「三鷹事件」。さらに8月17日未明には福島県内で機関車が脱線転覆し、乗務員3名が死亡した「松川事件」が起きている。

 昭和24年の夏。この歴史の断層ともいえる一時期について、ジャーナリストの斎藤茂男(1928~99年)は自著『夢追い人よ』(築地書館)に次のように書いている。