午後6時30分:降福式の司会をつとめ、ドン・ボスコに帰り、バルバロ、デルコール、スロイテルの3人と雑談して就寝した。
10日午前5時:午前5時に起床。同6時30分、新宿区内藤町の修道院に行き、ミサを挙げ、スロイテル神父が記念の植樹をした。
昭和の名刑事、平塚八兵衛登場
最も重要な知子さんの死亡推定時刻、3月9日午後10時から3月10日午前4時の間の6時間、神父はどこで何をしていたのか。あらためて行動リストをチェックすると、「3月9日午後6時30分、降福式の司会をつとめ、ドン・ボスコ社(杉並区八成町90番地)に帰り、バルバロ神父、デルコール神父、スロイテル神父の3人と雑談して就寝した。次の朝は午前5時に起床」と記している。つまり死亡推定時刻には、ドン・ボスコ社2階の己の部屋で寝ていたというのだ。
これでは客観性に欠け、アリバイとするにはいかにも弱い。ここから突き崩せば、陥落はそう難しくはないだろう。警視庁は神父の事情聴取を要請した。これまで非協力的な態度で一貫してきた教会側は、世情の動向を鑑みてこれ以上だんまりを決め込むわけにはいかず、受諾したのだった。
取調べを担当したのは警視庁捜査一課のエース、数々の大事件を担当してきた平塚八兵衛刑事だった。容疑者の矛盾を即座に見破り追い詰めて白状させる手法は天下一品といわれ、名づけられたあだ名は“落としの八兵衛”であった。
事情聴取を警視庁ではなく、浅草の菊屋橋分署(現警視庁菊屋橋庁舎)で行ったのは、マスコミに騒がれるのを恐れて教会側に配慮したためであった。木造二階建ての二階の一室が取調室、ベルメルシュ神父に同行したのは直属の上司ともいうべきダルクマン神父だった。この狭い部屋で警視庁の、いや国民の期待を背負い、平塚刑事は神父と対峙することになった。
1959(昭和34)年5月11日から13日の3日間は、午前10時から午後5時まで途中昼飯休憩をはさみ実質6時間であった。さらに20日と22日の2日間、合わせて5日間、延べ30時間にわたる事情聴取を実施したのだった。ただし、神父は日本語を流暢に話せたのだが一切日本語を使わず、通訳を付けての取調べとなった。
平塚刑事は後にこう話している。
「通訳が間にはいって調べをはじめたが、どうしても呼吸が乱れちまうよな、外人相手じゃ。調べってのは、ホシ(筆者注:犯人)と対決しながら、ことばのニュアンスや表情を読み取りながらやるもんだ。神父は日本語は百も承知で、ペラペラだよ。それが、いっさい日本語を使わねえんだよ。微妙な点になると神父は『迷惑をかけるといけねえから』といってわざわざ辞書をひいてから答えるわけだよ」(『刑事一代 平塚八兵衛聞き書き』佐々木嘉信著、日新報道出版部)
平塚刑事は、神父の血液型を採取するために湯飲み茶わんでお茶を差し出した。が、神父は手を付けず、血液型の特定は失敗したとマスコミの問いに答えている。けれども神父の血液型は、後の「捜査報告書」ではO型と記されている。
平塚刑事はマスコミが騒ぎ立てるのを抑えるために、あえてエピソードを披露したのかもしれない。それだけマスコミはヒートアップしていたのであった。