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男女共学となった法学部に進み、成績で男子を圧倒する

1935年(昭和10)3月、明治大学専門部女子部を卒業した20歳の嘉子は、希望通り明治大学法学部に編入しました。明大法学部に進んでも嘉子は成績優秀で、1938年3月に卒業する際には法学部の総代となっています。

試験の時には、周囲の男子学生にカンニングをお願いされることもあったということです。優秀でありながら、明るく穏やかで少しいたずら好きの嘉子には、もしかしたらずるいお願いもしやすかったのかもしれません(正義感の強い嘉子は、もちろんそのお願いを受けなかっただろうと思います)。

学生たちにとって、学校という場で異性と机を並べるのは、小学校を卒業して以来のことでした。おそらくお互いに関心はあったでしょうが、話しかける勇気がある人はほどんどいなく、女子学生たちは教室の前の方に集団で席を取って、授業を受けていました。授業が終わっても、自然と女子だけで行動するようなところがあったと、嘉子自身も振り返っています。

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卒業時には法学部総代に、教育機会は平等であるべきだと実感

大学で中心となっていたのは、やはり男子学生でした。人数の少ない女子学生は、男子学生の勉学の場をお借りしているような雰囲気だったとも、嘉子は後に語っています。

しかし、嘉子が総代を務めたように、成績については女子学生は男子学生に全くひけをとりませんでした(明大女子部の第1回卒業生が、編入して明大法学部を卒業したのは1935年のことですが、この時は立石芳枝・高窪静江の女性2名が成績上位者3名の中に入っていたようです)。男女のあいだには気持ちの壁があったにせよ、明大は女子学生にとって平等を体感できる場所でした。

後に嘉子は、教育における差別こそ戦前の男女差別の根幹であり、人間の平等にとって教育の機会均等こそが出発点であると述べていましたが、明大はこの問題に正面から向き合った、まさしく「パイオニア」の学校の一つであったのです。