「お嬢さん弁護士」と紹介され「向いているかもわからない」
修習を終え、さらに見事、みごと弁護士試補考試にも合格した嘉子は(正式には、この段階で、初の女性弁護士が誕生した、ということになります)、いよいよ弁護士としてのキャリアを歩み始めることになります。
1940年6月16日付で、嘉子たちがまもなく修習を終えることを伝える『東京日日新聞』には、「生れ出た婦人弁護士 法廷に美しき異彩“女性の友”紅三点抱負も豊かに登場」という見出しが踊っていますが、「お嬢さん弁護士」と紹介された嘉子のコメン卜は、「まだまだこれからです」、「一本立ちといっても自信もないし自分に向く仕事かどうかもわからないんです。まあやるとすれば民法をもつ(っ)と研究してゆきたいと思つてゐ(い)ます」という、淡々としたものでした。
1940年(昭和15)12月、嘉子は弁護士登録をして(試補時代のままに)第二東京弁護士会に所属し、引き続き仁井田益太郎の事務所で勤務することになりました。主に離婚訴訟を引き受けて働き出した嘉子でしたが、身近な生活にまで、戦争の足音が迫ってきていました。それまでも中国との戦争が続いていましたが、1941年12月に太平洋戦争が始まります。
戦時下では民事訴訟の数自体が大きく減り、嘉子は弁護士としての活動がほぼできない状態になっていきます。
明大女子部法科の助手となり、後輩の教育に熱を入れる
そのような中で、嘉子の生活の中心は、母校明大女子部法科での教育となっていきました。弁護士登録をするよりも前の1940年7月、嘉子は明大女子部法科の助手となっていたのです。さらに、1944年8月には助教授へと昇進しました(なお、その頃には明大女子部は改組して、明治女子専門学校となっていました)。
教師となった嘉子は、入学してきた女子学生たちの憧れの存在でした。学生たちは、「初の女性弁護士」というイメージとは遠い、明るく人間性豊かな嘉子に驚き、またその優しさに感謝したそうです。そのおおらかな雰囲気と反対に、講義が始まると、その張りのある声ときっちりした話し方とに、学生たちは惹きつけられました。