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 上記が含まれる章は「あるパチプロの死」と題されている。前述の田山幸憲の死について書いたものだ。田山は日記連載を続ける最中にガンに冒され手術を受け、治癒したと見なされる治療後5年を目前にそれが再発。〈時効寸前で逮捕される犯罪者の心境がよく分かる〉と『パチプロ日記』の最終巻に記し、翌年の盛夏、54歳で死去。「疚(やま)しさ、虚しさ、寂しさ」と向き合い続けた者の死であった。

棋士がギャンブルにのめり込む理由

 羽生善治は将棋のみならずチェスプレイヤーとしても名高く、同じく棋士の鈴木大介は麻雀のMリーグにも参加するように、一芸に秀でる者は多芸に通ず。羽生と同世代のプロ棋士・先崎学は麻雀、パチンコ、パチスロ、競馬、競輪に通じている。また文筆家としても知られ、多くの著書をもつ。

棋士・先崎学の青春ギャンブル回想録』(白夜書房)はそのうちの一冊だ。

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「棋士・先崎学の青春ギャンブル回想録」(Amazonより)

 10代の半ばに中田功(現八段)に麻雀を教えられ、続いて「おもしろいものがあるよ」とパチスロを教えられる。当時、中田は四段で先崎はまだ三段、すなわち前者はすでにプロ棋士だが、後者は奨励会員(満26歳までに四段にあがれなければ……のあれだ)であった。

 先崎は将棋に打ち込んで早く四段にならなければならない身分であるはずだが、新宿歌舞伎町のパチスロ屋に入り浸るようになる。それでも17歳で四段となり、晴れてプロ棋士となるが、すぐに壁にぶちあたる。

 思うように勝てずに、パチンコ、パチスロ、おまけに酒にまで呑まれていく。そのときの蟻地獄に落ちてもがき苦しむような心性を自らこう説明している。

〈馬鹿、と思われるかもしれない。そのエネルギーをなんで本職にぶつけられないのか、と。だが、そのときは仕方がなかったのだ。勝つ棋士が持つエネルギーには、気負い、自尊心、鬱屈などがついてまわる。私は、それらのエネルギーの燃えカスのような不純物を内面で処理できなかった〉

 勝てないことで、自尊心などの燃えカスが心にたまっていく……末井のいうところの「疚(やま)しさ、虚しさ、寂しさ」であろうか。

「(将棋は)パチスロの勝ち負けなどの比ではない。人生を賭けた勝負である」

 こうした心情も、競輪好きで知られる伊集院静だと次のようなダンディズムになる。

〈――それしかできなかった…。それだけのことで何ということはない。理屈はないのである〉(『大人の男の遊び方』双葉社)

 いずれにせよ、賭け事というのはその人についてまわる業のようなものに思える。業と中毒は紙一重にあるのだろうか。

 以上のようにまとめれば、先崎にパチスロを教えた中田は、彼の身のためにならない悪友に思える。しかしそう思うのは凡人の道徳である。

 本書には中田と先崎の対談がある。ここで中田は、勝負の世界を生きる者同士の関係について、こう述べている。

〈何があっても「助けてくれ」とか言わないで、踏ん張っているわけじゃないですか。「おい、生きてるか?」と思う時もありますよ。みんな家庭持って頑張っていたりして。仲間っていう意識もあるし、戦友っていう意識もあるし、だけど明日になったら敵味方になるかもしれない〉

 先崎を賭け事に向かわせたのは将棋への執着の裏返しであり、ギャンブル中毒になることなく踏み止まらせたのも将棋へのそれであったのだろう。だから彼はこうも書いている。

〈(将棋は)パチスロの勝ち負けなどの比ではない。人生を賭けた勝負である〉