もともとは歌手としてデビュー
映画での初台詞の際、五社から言われたように、夏木はもともと歌手としてデビューした。きっかけは、都内の私立高校の3年のとき、音楽大学受験のため通っていた音楽教室がなぜか歌謡曲の歌手を育てることになり、夏木に白羽の矢が立ったことだ。
音大進学は家庭の経済状態の悪化から断念していたこともあり、彼女はOKすると、高校卒業後、本名の中島淳子で2枚のレコードを出した。しかし、さっぱり売れず、事務所に言われるがままキャバレー回りを始める。地方での宿泊先はキャバレーの社員寮やラブホテルということもざらで、旅館で男性のバンドマンらと障子1枚だけで分けられた一室に泊まらされたときには、身を守るため、ほうきを障子のつっかえ棒代わりにして寝たという。
そんな生活に嫌気が差して、1年ほどで歌手をやめる。だが、それからまた1年後、同じレコード会社の別のディレクターに声をかけられ、再デビューが決まる。「夏木マリ」という芸名も、このとき、辺見マリが引退したので「マリ」の名が空いていたのと、夏にデビューするから「夏に決まり」ということで、本人も知らないうちに決まっていたらしい。
「自我がなかった」時代
再デビューでプロデューサー的立場を担った作詞家の阿久悠には、初対面時、「君は地味で個性がない。小学校の先生みたいだね」と言われたという。いまの夏木を思えば信じられないが、本人は《それぐらい当時の私は、色が、自我が、なかったんです》と振り返る(日経WOMAN編『妹たちへ2』日経BP、2010年)。こうして本来のイメージをガラリと変え、お色気路線で再デビュー、その最初の曲「絹の靴下」(1973年)は指を妖しく動かして歌う姿も話題を呼び、ヒットした。
その後もしばらくはヒットが続くも、過労による入院と事務所移籍を経て、またしてもレコードが売れなくなり、地方のキャバレーを回る日々に逆戻りする。金だけは入るので、毛皮や外車を買ったりそれなりに贅沢はしていたが、心は満たされない。それでも何も考えず、惰性でそんな生活を続けるうち、上手く歌えなくなり自己嫌悪に陥っていく。
ようやく転機が訪れたのは、1980年に再び事務所を移り、俳優に転身してからだった。直後には事務所を経営するプロデューサーの砂田信平がニューヨークに連れて行ってくれ、ブロードウェイの舞台に魅せられる。「もしかしたら、頑張れば自分もああいうことができるかもしれない」と初めて夢を持ったという(『婦人公論』1997年12月号)。
帰国するとバレエのレッスンや発声の訓練を始める。同時期には、赤坂コルドンブルーや日劇ミュージックホールで、トップレスの女性ダンサーたちとレビューに出演、彼女たちのプロ意識の高さに圧倒される一方で、自分が何もできないことを痛感した。