1ページ目から読む
3/4ページ目

「派手さがいい」と言われるまでに

 それでも、日劇ミュージックホールの常連客だった演出家や映画監督から声がかかるようになる。前出の五社英雄もそのひとりだった。このほか、演出家の里吉しげみも、「下手だが、初鰹のように生き生きした」夏木に一目惚れして、自身の主宰する劇団「未来劇場」へ招き、演劇の基礎を叩き込んだ(『AERA』2004年8月9日号)。

 ミュージカルにも出演し始めたころ、ある演出家に「どうして私みたいな芝居のできない人間を使うの?」と訊くと、「派手さがいい」と言われたという(『キネマ旬報』1984年5月上旬号)。かつて地味だと言われていたのが、「派手さがいい」と呼ばれるまでになったその変身ぶりもすごいが、30代初めの夏木が「自分は芝居ができない」と思っていたことにもまた驚かされる。

©文藝春秋

 しかし、このときの彼女はもはや、できないことに甘んじたりはしなかった。1989年から3年間、演出家の鈴木忠志の劇団に入り、「鈴木メソッド」という独自の身体訓練を受けながら修業を積む。40代に入った1992年には、イギリスの演出家スティーブン・バーコフによる、やはり身体的な舞台『カフカの変身』に出演した。バーコフが役者として修業中にパントマイムを学んだことを知っていた夏木は、自身も事前にパントマイムをにわか仕込みしてから稽古にのぞんだ。おかげで、彼の厳しい要求もかろうじて理解できたという。

ADVERTISEMENT

 こうした経験を通じて、身体表現に重点を置いた舞台に傾倒していく。ドイツのコンテンポラリーダンスの振付家ピナ・バウシュのダンス演劇を観て、ダンスの概念を覆されたことも大きかった。その風のような動きに、運動音痴の自分でも踊れるダンスがあると知ったのだ。

芸能界から離れた理由

 さまざまなものに影響を受けながら、1993年に夏木がスタートさせたのが、身体表現を追求する一人舞台「印象派」であった。彼女が出演だけでなく、企画・構成・演出とすべて一人でこなすこのシリーズでは、2002年に高野山の僧侶たちの声明とコラボレーションするなど、毎回、先鋭的な試みを行い、国内外で注目される。

「印象派」は彼女にとってはライフワークという位置づけであり、金も惜しみなくつぎ込んでいった。他方で、NHKの朝ドラ『ひまわり』(1996年)で松嶋菜々子扮するヒロインの母親役が好評で、その後も母親役の依頼がいくつも舞い込んでいた。しかし、夏木は「印象派」との両立は無理だと思い、芸能界から遠ざかる。

 これではいけないと気づいたのは、40代後半、海外旅行中に買い物をしようとクレジットカードを出すと、突然、店員から「これは使えない」とはさみでカードを切られたときだった。どうやら事務所の支払いの滞納が続いて、ブラックリストに載っていたらしい。

 それまで収支のすべてを事務所に任せきりで、まったく把握もしていなかったことを夏木は反省した。普通の社会人としてまずはちゃんとせねばと思い、2002年、砂田信平の事務所から独立すると、個人事務所をつくり、収支をきちんと管理できる人を雇い入れた。同時に、「印象派」を続けていく資金をつくるためにも、テレビなどの仕事をこなすようになる。