国鉄の初代総裁が轢死体で発見され、占領期最大の謎とも呼ばれる「下山事件」。事件から70年以上経った今も、真相は明らかになっていないが、当時の関係者は事件とどのように向き合っていたのか。

 ここでは、『証言 タブーの昭和史』(宝島SUGOI文庫)の一部を抜粋。国鉄総裁の死は自殺だったのか、それとも他殺だったのか……。永遠の謎を紹介する。(全2回の1回目/続きを読む)

©GYRO PHOTOGRAPHY/イメージマート

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3万7000人の職員に解雇通告した翌日に失踪

 1949(昭和24)年に頻発した数々の「鉄道テロ事件」は、国鉄の労働問題と深い関係にあると言われている。

 特に、7月6日の「下山事件」(常磐線)、7月15日の「三鷹事件」(中央本線)、8月17日の「松川事件」(東北本線)は、俗に「国鉄三大ミステリー事件」と呼ばれ、人員整理に対抗する国鉄労組の反抗であるという定説に対し、さらに大きな謀略が働いているとする「GHQ陰謀説」などが拮抗し、いまなお真相の完全究明はなされていない。

 この年の6月1日、新しく発足した国鉄の初代総裁に下山定則(当時49歳)が就任した。

 帝国大学卒の下山は戦前の鉄道省のエリート官僚で、戦後は名古屋鉄道局長、東京鉄道局長などの要職をつとめ、事件前年の1948年には運輸次官に登りつめていた。

 当時、下山が抱えていた最大の任務は「リストラ」であった。国鉄は約10万人の職員整理を決定。1949年7月4日には、第一次整理として3万7000人の職員に解雇を通告した。

 下山が「失踪」するのは、この翌日のことである。

 7月5日午前8時20分ころ、いつものように大田区の自宅を出た総裁専用車ビュイックは、東京駅前の国鉄本社ではなく、銀行を経由して三越デパートに向かった。

国鉄総裁の遺体が轢死体で発見される

「5分ばかり待っていてくれ」

 下山は運転手にこう言い残し、三越の中へ消えていったが、これが生きた下山の「最後の姿」となった。運転手はこのあと夕方までその場を離れず待ったが、下山はついに戻ってこなかった。

 この日、午前9時からの会議に出席予定だった下山が姿を見せないことに不審を抱いた国鉄本社は、午前10時前、警視庁に連絡を入れている。

 午後5時、ついにラジオが「国鉄総裁の行方不明」を報じた。

 運転手や三越の全店員に聞き取り調査が行われたが、下山の足取りは依然としてつかめない。日付が変わった7月6日午前2時過ぎ、衝撃的な一報が入った。

「総裁が轢死体で発見された」

 発見者は上野発松戸行きの常磐線の運転士。下山の遺体は常磐線北千住ー綾瀬間の線路上で無残にも5つに引き裂かれていた。