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 鑑定の結果、下山は7月6日午前0時19分に現場を通過した貨物列車に轢かれたことがわかった。渦中の国鉄総裁の怪死に日本中が色めき立った。

米国立公文書館に保存されていた6枚の写真

 苦しい現実からの逃避を試みた自殺か、あるいは首切りに反対する労組による犯行か。はたまた労組を沈黙させるためのGHQの陰謀なのか。下山の死の「真相」をめぐり、マスコミは大論争を繰り広げた。

 ポイントとなったのは、下山の「三越デパート」以後の足取りと、轢断時に下山は生きていたのかどうかという2点である。

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 目撃証言によれば、下山は三越デパートを去った後、地下鉄に乗り移動。東武伊勢崎線五反野駅に近い「末広旅館」にて、1人で時間を過ごしていたとされる。

 また、解剖学の権威とされた古畑種基・東京大学教授は「死後轢断」を主張し自殺を否定したのに対し、同じく有力な法医学者である中館久平教授はこれに真っ向から反論。自殺か他殺かの根拠をはっきりさせることは困難になった。

 朝日新聞と読売新聞はおおむね「他殺説」を支持したが、毎日新聞は「自殺説」を展開。論争に拍車をかける格好となった。

自殺か他殺か…

 その後、人気作家の松本清張は「他殺説」を主張。7月5日の午後11時18分に占領軍の専用列車が現場を通過していることを指摘し、赤羽の占領軍基地で殺害された下山がこの列車によって運ばれ、後に通過した貨物列車に轢断されたと推理した。

©ND750/イメージマート

「自殺」を本線とする筋読みで動いていたとされる警視庁も、1949年12月31日をもって捜査本部を解散。最後まではっきりとした結論を出さないまま、1964年、殺人事件であった場合の公訴時効が完成した。

 その後も「下山事件」に関する証言と新事実発掘は続いた。

 1986年、産経新聞は米国立公文書館において解禁された6枚の「スクープ写真」を公開した。それらを見た近代の法医学者たちの見解は「生体轢断」に傾いている。

 事件の捜査に当たった警視庁の刑事・平塚八兵衛は下山が軽度の鬱病状態にあったことや、松本清張の取材を受け自殺だと説明して清張も納得していたのに「他殺」のストーリーが発表されたことなどを明かしている。

 果たして、自殺だったのか。それとも他殺だったのか。事件から70年以上が経過したいまも、謎は尽きない。