昨年、73歳で亡くなった作家の伊集院静の代表作のひとつに、小説『いねむり先生』(2011年)がある。自伝的作品といえる同作では、著者の分身と思しき主人公のサブローが、ある人の紹介で小説家の「先生」と出会うと、まもなくして地方の競輪で遊ぶのを目的に旅に出かけるようになる。いわゆる“旅打ち”である。時代でいえば1980年代後半のことだ。

伊集院静 ©_文藝春秋

 二人が最初に旅した愛知県の一宮では、1日目の夜、食事に入った店で、そこの家の子供がテレビゲームをしていた。その帰り道、ふと先生が「テレビゲームというのも面白そうですね」と口にしたので、サブローが「なさるのですか」と訊くと、以下、次のようなやりとりが続く(引用は集英社文庫版より)。

「いや、したことはありませんが、あれでいろいろ工夫がいるらしいですね」

「一人で遊んで面白いんですかね」

「うん。遊びは一人遊びが基本でしょうが、あれは一人遊びじゃないでしょう」

「そうなんですか」

「ええ、今、日本全国でだいたい同じ時間に子供たちはあれをやるそうです。その様子を少し俯瞰すると、日本中の家々の屋根をはぐれば何十万人という数の子供が同じゲームをしてるようです。あれは皆と遊んでるんですよ」

 同作の先生のモデルは、「阿佐田哲也」のペンネームでギャンブル小説でも人気を集めた作家の色川武大である。色川の没後、伊集院が共通の友人であるマンガ家の黒鉄ヒロシとミュージシャンの井上陽水と会した鼎談でも、記憶に残る色川の言葉として、上に引用したのとほぼ同じ発言が紹介されていた(『オール讀物』2009年12月号)。子供たちがそれぞれ一人でゲームをしながらもみんなで遊んでいるという色川の物の捉え方は、現在のネット社会を予見していたかのようでもあり、その卓見に驚かされる。

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「近頃の若者はなぜバクチをしないのか」

 色川は生前(1988年頃)、伊集院が全国の競輪をまわって連載エッセイを始めるに際し、ギャンブルの先輩・阿佐田哲也として心得を求められたときにも、やはり似たような発言をしていた。そこで色川(阿佐田)は「近頃の若者はなぜバクチをしないのか」という疑問から、こんなふうに語っている。

《体制派という感じの若者が多いみたい。競輪なんていうのは市民権を得ていない。野球なんかいくら狂っても体制から落っこちない。競輪とかは、ちょっと狂うと外れ者になっちゃう。管理社会ですね。(中略)パソコンとか考えても、一人で遊んでいるけど、みんなが同じことをやってると思っているから、一人遊びじゃないんだ》(伊集院静『夢は枯野を――競輪躁鬱旅行』講談社、1993年。原文では「外れ者」「一人遊び」に傍点)

色川武大(競輪場にて) ©文藝春秋

『いねむり先生』のセリフにあった「遊びは一人遊びが基本」という色川の信条がここにもうかがえる。それは伊集院も同調するところであったらしい。俳優の小林薫との競馬をめぐる対談では、小林から《ジュッちゃん(伊集院氏のこと)は、競馬場には一人で行くものだという考えですか?》と訊かれ、《基本的にはね。ただ、一人で行く感覚の人となら、一緒にいた方がおもしろい。飲み代とか白タクの代金とか、全部割りカンになるわけだし(笑)》と答えている(『Number』1989年11月5日号)。色川も「一人で行く感覚の人」だったからこそ、一緒に旅打ちに行っても、気が合ったのだろう。