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色川の背中が伝えたこと

 現実の色川もまた、小説を手放しそうな若者を見ると、「叩きあいをしませんか」というような言い方で稽古を持ちかけていたらしい。しかし、当時の伊集院は、小説は才能で書くものだと考えており、実際に「叩きあい」をすることはなかった。しかし、のちに考え直し、色川が言っていたことが《鉄工所の職工だとか鍛冶屋の男みたいに、ハンマーで叩いて形を作っていくものなら、鍛錬していけば、自分でも何か小説を書けるかもしれない、それだったらやっていけるかもという気がした》という(『本の話』2003年2月号)。

 当時の色川は、自身のなかの狂気と向き合った長編『狂人日記』を文芸誌に連載中であり、旅打ちに出ても原稿用紙を抱え、宿泊先では執筆に打ち込んでいた。伊集院はその姿を間近で見て感銘を受けたようだ。のちに振り返って、《後ろから見てると、とても順調には見えないんだな。今まで私が見てきた男たちとは対極にあった。自分の勘として、こういう仕事に対する向き方、向かざるを得ない何かをすごく感じて、「自分も書いていこう」という動機になった気がします》と語っている(『本の話』前掲号)。

 もっとも、前出の『オール讀物』の鼎談では、《それでも色川さんが生きている間に書けなかったのは、やっぱり間近で色川さんを見ていたからだと思うんですよ。小説はしんどいな、と見ていて思いましたから……》とも打ち明けている。

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「こつこつ書いていけば当たるのか」

 それでも伊集院はやがて小説を再び書き始める。1989年に短編集『三年坂』を刊行して吉川英治文学新人賞を受賞すると、1992年には『受け月』で直木賞を受賞し、作家として地歩を築いた。そのきっかけをつくってくれたのが色川であったことは間違いない。

 1988年に単行本として出版された色川の『狂人日記』は高く評価され、翌年には読売文学賞を受賞する。その贈呈式の会場で、伊集院は井上陽水から「こつこつとやっていればこういうことに当たるんだね、おたくたちの世界は」と言われ、「そうか、自分もこころを入れかえてこつこつ書いていけば当たるのか」と思ったという(『オール讀物』前掲号)。

『いねむり先生』でも、先生の授賞式でサブローと同席したミュージシャンの「I」がほぼ同じことを口にする。だが、これに対しサブローは《それは違っています》、《ボクにはこんなことはありません。それに小説を書くのはとっくにあきらめましたから》と、このときも突っぱねる。

 結局、このあと先生が亡くなってからも、サブローが小説に再び取り組むことはないまま、物語は終わる。この点にかぎってはサブローと伊集院は決定的に異なる。伊集院が、サブローが自分と同じく再び筆を執るという結末にしなかったのはなぜなのか。物語はあくまで物語であり、現実とは違うと示したかったからだろうか。

ときには原稿料の前借りも

 ともあれ、作家として再出発してからも、伊集院はギャンブル中心の生活をしばらく続け、現金が切れると各出版社から原稿料の前借りをすることもしょっちゅうであったらしい。直木賞受賞の決定時に密着取材を受けた際には、《借金は生命保険と同額》と明かしている(『週刊文春』1992年7月30日号)。

 若い頃からそんな生活を送り、方々に借金もつくっていたにもかかわらず、伊集院はパンク(破産すること)も、打ち倒れ(死んでしまうこと)もしなかった。当人に言わせるとその理由は、ギャンブルのために《普通の人の何倍も働くことを苦に思わなかったからかもしれない》ということになる(「それがどうした 男たちの流儀 第195回」、『週刊現代』2013年11月16日号)。伊集院が色川が原稿に向き合う姿に心を打たれたのも、彼自身がもともと仕事に対して色川と同様の姿勢を持っていたからなのかもしれない。

若き日の伊集院静 ©文藝春秋

 余談ながら、伊集院は、作家で精神科医の帚木蓬生がギャンブル依存症の人向けにつくった質問レポートを然る筋から入手し、自分もそこに挙げられた質問事項に回答してみたと、エッセイに書いている(「それがどうした 男たちの流儀 第62回」、『週刊現代』2010年11月13日号)。それによれば、結果は「軽症」であったという。