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競輪でスッテンテンに

 伊集院が色川と交流したのは、先方が1989年に60歳で亡くなるまでのわずか2年ほどだが、ギャンブルに関する出来事にかぎっても、のちのちまで語り草となったエピソードは数多い。とりわけ、年の瀬に立川競輪場に行って二人してスッテンテンになったときの話は、伊集院のお気に入りだったのか、何度となく書いている。このとき、とりあえずタクシーに乗ると、色川が「伊集院君、俳優のNの家で麻雀をやってるんだが行ってみませんか?」と言い出すので、「あそこは毎回現金で清算でしょう。もうタマ(現金)がありませんよ」と返すと、彼は「な~に、最初を負けなきゃいいんだ」と平然として言い放ったという。

麻雀に興じる色川武大 ©文藝春秋

 もっとも、『いねむり先生』を読むと、二人は旅打ちに行ってもギャンブルだけに興じていたわけではない。むしろ、それに付随する食事、夜の街歩き、地元の人たちとのやりとりなどを愉しんでいる。

 現実にも、伊集院は色川とのつきあいについて、《一年余り、二人で旅をした。行先には博打場があるのだが、出かけてみると博打場で過ごすことが目的ではなくなってしまうような旅だった。夕刻宿に入り、横になりそのまま休むこともあれば、目覚めた具合いで夜半街を徘徊した。年齢差はあるものの、この旅がお互いに気に入っていた》と記している(「色川武大の厄介」、『文學界』1997年5月号)。

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失意のどん底で出会った

 そもそも伊集院が色川と知り合ったのは、2作目となる短編小説の挿絵を描いてくれた黒鉄ヒロシの紹介による(『いねむり先生』にも黒鉄をモデルにした「Kさん」が登場する)。当時、伊集院は女優だった妻の夏目雅子を1985年に亡くしたばかりで、まだ心の傷が癒えなかった。そのためギャンブルと酒浸りの日々を送り、郷里の山口でくすぶっていた頃、上京した折に黒鉄が色川に引き合わせたという。

 その経緯は『いねむり先生』にも克明に書かれており、妻の死からなかなか立ち直れずにいたサブローは、あるとき発作的に幻覚に襲われるが、先生に救われることになる。こうした筋からすると本作は、失意のどん底にあった主人公が、先生との出会いによって立ち直っていくまでを描いた一種の友情物語だといえる。そこではギャンブルはあくまで両者が心を通わせる一要素にすぎない。だからだろう、ギャンブルをしない筆者のような読者の心にも響く。作者の伊集院自身も、この小説を書き終えてから読み返してみて、「出会って、救ってもらって、別れた」というシンプルな物語であったことに驚いたという(『正論』2011年5月号)。

©文藝春秋

 サブローは先生に心を開きながらも、ひとつだけ、小説については、妻の死を機にもう書かないと決め込み、昔書いた短編について先生から褒められても、話を避けようとする。別の場面では、先生に「少し小説の稽古をしませんか」とまで言ってもらったものの、サブローは受け入れなかった。