4月26日、ブライダルファッションデザイナーの桂由美さんが死去した。94歳だった。日本初のブライダル専門店を東京・赤坂で創業したのち、フランチャイズ店舗を日本各地に展開するなど、桂さんは日本にブライダル文化を広めるために尽力してきた。『文藝春秋』のインタビューでは、業界のしがらみに阻まれて悔し涙を流したエピソードを明かしていた。
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婚姻数低迷の時代に思うこと
厚生労働省の統計で2021年の婚姻数が約51万4000組(速報値)と戦後最少だったという報道が話題になりましたね。
私がブライダルの仕事を始めた初期の1970年代初めは、1年間に結婚するカップルの数は、110万組もいました。
当時の実に2分の1以下に減ってしまったということです。
しかも、内閣府の調査では30代独身の男女とも4人に1人が「自由でいたい」と結婚願望がないとか。
これは、生涯ブライダルひと筋で生きてきた身からすると、本当に悲しいことです。
女性は、「いい人と出会えれば今日にでも結婚しますよ」という人も多いと思いますが、男性は、昔と違って、奥さんがいなくても困らずに暮らせますからね。
私も、2006年頃から、非婚化・晩婚化対策のひとつとして全国の観光地域の中からプロポーズにふさわしいロマンティックなスポットを「恋人の聖地」として選定する「恋人の聖地」プロジェクトに関わってきました。
政府も、地方の婚活業者に補助金を出すなどいろいろ手は打っているようですが、なかなか効果があがっているように見受けられません。
これだけは、個人の自由ですからね。やはり、ひとりひとりが「結婚したい」と思わないことにはね。
「ブライダル」はなかった
私は1964年の年末に日本初のブライダルファッションデザイナーとしての活動を開始してから、60年近くにわたって、「ブライダル」に携わって生きてきました。
それはひとえに、素敵なウエディングドレスで結婚式をあげたいという女性の願いをかなえたいという想いからです。
私がもともとこの道に入ったきっかけは、母が経営していた洋裁学校「東京文教学園」(現・東京文化ブライダル専門学校)で、教師をしていた時に、教え子の卒業制作のテーマとしてウエディングドレスを選んだことでした。
大学卒業後にパリに1年留学した私はそこで立体裁断などの技術を学び、数多くの西洋風のウエディングドレスを見ていたのです。
ところが、生徒たちがウエディングドレスを製作するために素材を探そうとすると、当時の日本にはろくな生地もレースもありませんでした。そもそも幅広の生地を織れる織機もなかったのです。
卒業制作では生徒たちが実際に作ったドレスを着てショーを開催するのですが、ドレス用のインナーもなければ、白いハイヒールを手に入れるのもひと苦労。
当時は森英恵さんたち有名なデザイナーも現れて、日本のファッションの水準は高まっていましたが、ことブライダルは、まだ全く何もない、ということがわかったのです。
そもそも結婚式を指す「ウエディング」の語はあっても、新婦や花嫁を意味する「ブライダル」という言葉が全く使われていない時代でした。