「『親ガチャ』という言葉は、実はここまで響いてくる。それなら、まさに『無常』『無我』という仏教の教えに通底するだろう」

 恐山菩提寺で住職代理を務める南直哉さんが「親ガチャ」という言葉に衝撃を受けた理由とは……?最新刊『苦しくて切ないすべての人たちへ』(新潮社)より一部抜粋してお届けする。(全2回の2回目/前編を読む)

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「親ガチャ」という無常

「親ガチャって、知ってるか?」と知人が言った。

「よく知らんがオモチャだろ」

 確か、お金を入れて、ハンドルを回すとオモチャが出てくる遊びで、街のところどころで見かける。

恐山の副住職は「親ガチャ」に何を思う? 写真はイメージ ©getty

「それはガチャガチャだ。それに親がつく」

「親って……、あ!」

「わかったか。金を入れてハンドルを回しても、何がでてくるかわからんように、親は選べないという意味さ。つまりは、お前が小難しい理屈で言ってることを、ガチャ一発で片づけるんだよ」

 ショック! 「自分であることの無根拠さ」とか「他者に課された自己」などと、長らく考えに考えてきたことが、ガチャ一発!? つまりは、「諸行無常」「諸法無我」も「親ガチャ」か!!

「常」であるとは、「常に同じ」であることを意味する。それは要するに「常に同じ何かがある」ということになる。この「常に同じ何か」を「我」という。仏教のアイデアは、そのような「常」と「我」を否定するのだ。

 これを自分自身に当てはめて言うなら、「自分が自分であることを保証する確かなものは何も無い」という話になる。そして、このことを突き詰めていくと露わになる、最も根源的な事実は、「自分がその人を親として生まれてきたことに、さらに言えば、そのような自分として生まれて来たことに、何の理由も根拠も無い」ということである。即ち、我々の存在の究極にあるのは、「親ガチャ」という無常なのだ。

「草食系」「悟り世代」という言葉が出てきた時にも、実際「出家遁世」みたいだなァとは思ったが、それは個人の生き方の内で、選択肢の一つに過ぎないから、私は特に気にも留めなかった。

 が、しかし、「親ガチャ」は違う。これは最早どうしようもない酷薄な現実のことである。その「酷薄な現実」が、「親ガチャ」などという「軽い」(65歳にはそう思える)言葉で言われてしまうことに、それこそ軽くない衝撃を受けるわけである。

 このような言葉で言い表され、それがSNSで流通し、メディアにも扱われているとなると、「親ガチャ」が意味する切なさは、かなり広汎に、特に若い世代に共有されているわけだろう。それは社会的・経済的格差が露わになってきた昨今の状況から、なるほど宜なることかなと思う。

 ただ、それにしても、これは単純に「親」、すなわち自分が生まれた家庭環境の「当たり外れ」だけの話なのだろうか。たとえば、恵まれた環境に生まれ育った者は、この「親ガチャ」という言葉には関心が無く、リアルに感じないのだろうか。あるいは、中高年には若者の戯言に過ぎないのだろうか。