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 必ずしもそうではないだろうと、私は思う。自分の意志でも責任でもない苦境に突然投げ込まれる。しかもその苦境が個人の力ではいかんともし難いという事態は、誰にでもあるし、あり得る。「親ガチャ」という言葉は、実はここまで響いてくる。それなら、まさに「無常」「無我」という仏教の教えに通底するだろう。

 しかし、仏教にはもう一つ、重要な教えがある。「縁起」である。私たちは、他者との関係においてしか自分であり得ない。

 私は思う。確かに親は選べない。ガチャそのものである。しかし、それが遊びとして成り立つのは、「外れ」を受け容れる前提があるからだ。ならば、あえて「ガチャ」と言うなら、選べなかった親を、と言うより選べない事実を、赦せないか。

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 恨んで当然の親と環境を、いつか、なんとか、赦すことはできないか。

 おそらく、自立とは、大人になるということは、それが赦せた時から始まるのだ。

 そして、自分でどうしようもない苦しさで身動きできないとき、人を頼る勇気が持てないか。

すべての責任を背負う理由はなにもない

 我々は自分を自分で始めたのではない。そこに根拠も無い代わりに、責任も無いのだ。

 私が縁起の教えに学んで痛切に思うのは、我々が問答無用、宿命的に他者と関係を結んでいる以上、すべての責任を背負う理由はなにもない、ということである。

 自分でできることは、もう自分でやっている。それが大人のプライドというものだろう。

 しかし、できる範囲を超えた時、「自己を課した他者」(「親」ばかりのことではない)に助けを求めるのは当然のことで、何ら恥じ入ることではない。そこに責任があるのは、他者なのだ。そして、立場が逆転し、自分が助けを求められたときに、何かできることをするのが、もう一つの大人のプライドというものだろう。