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 思いも寄らない苦境に陥った人々に対しても、「自己責任」や「自己決定」を言い募る、イイ歳をした大馬鹿者がいる。彼らの頭の中身は、昂進する自意識にのぼせた思春期の連中と変わらない。要するに、こちらは単に歳を重ねただけで、まだ「大人」になっていないのだ。

他人を責めるのは簡単だが…

 幼児は他人に頼ることしかできない。それが少し育つと、何でも自分でしたいと思うし、できると思う。この「できる」が挫折して、妥協の苦さを思い知る時から、「大人」が始まる。が、「妥協」を「迎合」に誤解していては、大人になれない。

 妥協の要諦は自分の限界を知ることである。限界を知り、その限界から他者に向かって、自らもう一度関係を作り直そうとするとき、そこに大人がいるのである。となれば、実は大人と年齢には大した関係がないだろう。

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「仏教では自業自得(じごうじとく)と言うじゃないか」と突っ込まれるかもしれないが、この話は「自業」を、つまり自分の在り方を、どこまで深く自覚するかにかかっている。これを簡単に他人に向けて言う人は、私の経験ではほぼ例外なく、「業」の自覚が絶望的に浅い。ということは、大した「自得」もない。その上、他人の「行い(業)」を云々することに傍若無人なほど熱心である。他人を簡単に責めるのは、未熟な者の最もわかりやすい特徴の一つだ。

 私は、もの心つき始めた幼少期から、ただの一度も大人になりたいと思ったことはないし、なるべきだと思ったこともない。そうならざるを得なかったに過ぎないし、単に仕方なかったのだ。ただ、「仕方がないことは仕方がない」と覚悟しなければならないと思った時期は、おそらく人より早かった。私が「マセている」と、よく言われたゆえんだろう。

 結局、「マセた子供」が出家したのは、そうでもしなければ、「大人」になれなかったからかもしれない。

©新潮社

「ところで、『無理ゲー』って、知ってるか?」

 私は即答した。

「聞いたことはある。仏教で言えば、『一切皆苦』だな」

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