「あっ」と思った瞬間、崖から滑落
同行者の名前を何度も大声で呼んだが、返事はなかった。登り返すのは億劫だったので、とにかくそのまま下れば登山口に着くだろうと考え、先へ進むことにした。
だが、しばらくして用を足すために藪の中に入っていったときに、突然体が宙に投げ出された。地面だと思って一歩を踏み出した草の下にはなにもなく、「あっ」と思った瞬間にはもう崖から落ちていた。スギの森が逆さまになっている光景が目に入ったが、そのあとのことはなにも覚えていない。
水音が聞こえ、顔の左半分に生温かいものを感じて目が覚めると、斜面の傾斜が緩んだところに横たわっていた。横になったまま、首にかけていた手ぬぐいを当ててみたら、真っ赤に染まった。手で確かめてみると、耳がぶらぶらしていてちぎれそうになっているのがわかった。
それを認めた瞬間、「やってしまった。これはマズい」と思った。
すぐそばには1メートル四方ほどの大きな石があり、左側約3メートル下に沢が流れていた。
どうやら石にぶつかって滑落が止まり、沢まで落ちずにすんだようだった。
左足の脛の内側もひどく痛み、ケガを負ったのは間違いなかった。そのときの服装は、上半身はTシャツの上に長袖シャツを着込み、下半身はサポートタイツの上にハーフパンツをはいていた。見たところ、サポートタイツはどこも破れておらず、出血もみられなかった。ただ、どんなケガをしたのかは、チェックしないことにした。ケガを見てしまったら、心が折れると思ったからだ。幸い、足に力を入れたら踏ん張れるし、立つこともできたので、骨は折れてはいないと判断した。
ケガをしたのは左耳と左足の2箇所だけのようだった。ザックは背負ったままの状態で、それが滑落時のクッションになったのだろう。時計を見ると、夕方の4時半になっていた。滑落したのが午後2時前だとしたら、2時間半以上は気を失っていたことになる。
山頂から下山するときに、「先に下りる」と言ってひとりで先行したことが、悔やまれて仕方がなかった。
所持品をチェックしてみると、ザックの中に入れていた保温ボトルと水筒(いずれも容量1リットル)、それにザックのサイドポケットに差していたトレッキングポールがなくなっていた。
ほかに持っていた800ミリリットルの水筒と500ミリリットルのペットボトルの水は無事だった。