九州地方のCMで活躍
中学生になると、東京に行って女優になりたいとはっきりと思うようになる。自分で東京の芸能事務所に電話をしたり、オーディション用の履歴書を書いたりする娘を見て、両親は「家を飛び出しかねない」と心配し、アパレル関連の仕事をする父が知り合いのモデル事務所に連れていってくれた。こうして中学3年から2年のあいだに、九州地方だけで13社のCMに出演する。
17歳の春には東京から声がかかり、映画『がんばっていきまっしょい』(1998年)の最終オーディションを受けると、主演に抜擢される。その年の夏には、映画の舞台となる愛媛・松山でロケを行い、その後、両親を説得して東京の芸能事務所に移籍した。
女子ボート部の奮闘を描いたこの映画で、田中は映画賞の新人賞を総なめにする。あとで監督の磯村一路になぜ自分を選んだのか訊いたところ、「ほかの子はよく見せようと、ニコニコしたりしていたけど、この子は何でこんなところに来てるんだろうという感じで、ブスッとしてた、それがよかった」と言われたという(『広告批評』1998年12月号)。彼女は九州のモデル時代より、「私が私が」とことさらにアピールするのがあまり好きではなく、このままの自分を見てくださいという姿勢でやってきたといい、このときもそれがいい結果をもたらしたようだ。
デビュー10年目で初ドラマ
デビュー後も地元・久留米の高校を卒業するまでは、CM撮影などのたび東京とのあいだを飛行機で往復し、映画のプロモーションでは全国津々浦々をまわった。卒業直前には、フジテレビの月9『Over Time オーバー・タイム』でドラマデビューもしている。多忙をきわめながらも、なりたかった俳優の世界に足を踏み入れることができて、とにかくうれしかったと、のちに著書『ユメオンナ』(講談社、2005年)で振り返っている。
同世代にはドラマで活躍する女優が多かったなか、田中はかなり長いあいだ、CMにこそ出るが映画を中心に仕事をしてきた。ドラマ初主演は中国で放送された日中合作の連ドラ『美顔』(2005年)だが、日本ではじつにデビューから10年が経った2008年の『猟奇的な彼女』が最初となる。
映画をメインとしてきたのは、性格的に「私は違うところで表現したい」というところがあったのと、新人賞ももらい、《映画の役者として求められている部分がたくさんあるのを肌で感じて、期待してくれた人たちに対して、何かを返していけたらいいなと思って》いたこともあったらしい(『キネマ旬報』2005年9月上旬号)。
20代の転機
20歳前半には一時、何かにチャレンジしたいものの、何をやればいいのかわからなくて模索していた。だが、そんな折、前出の日中合作の『美顔』に出演して、何かスッキリしたという。このとき、言葉の壁は大きいけど、逆に言えば、それだけかなと思い、大事なのは心と心が通じ合うことだと気づいた。当時のインタビューではそう明かすと、次のように続けている。