抜き身を手にした5人。4畳半の部屋は一瞬にして血の海と化した
が、部屋にいたのは、明友会三津田組組員の5人だけ。ターゲットとする幹部たちはいち早く逃走したあとだった。三津田組組員5人は抜き身を手に身構えてこそいたものの、眼は血走り、顔をひきつらせ、もはや勝負の行方は明らかだった。
追いつめられ、逃げ場を失った5人は必死の形相で反撃してくる。斬り込み隊も容赦なかった。狭い4畳半の部屋は一瞬にして血の海と化した。彼らは1人を斬殺、残り4人に重傷を負わせるという凄まじい攻撃をかけたのだった。山口組側には怪我人の1人とてなかった。この事件は明友会の戦意を喪失させるに充分で、彼らは山口組の恐ろしさ、強さを厭というほど身に沁みて知ったのだった。
ここに至って、明友会会長姜昌興も、観念するよりなかった。もはや和解どころではなかった。8月23日、姜は、山口組直参組長である別府の石井組組長石井一郎を通じて、地道若頭に全面降伏を申し出た。
翌24日、有馬温泉において山口組と明友会の手打ち式──というより、ほとんど“全面降伏式”にも等しい儀式が執り行われた。明友会側は、姜会長以下最高幹部7人が断指した指をそれぞれ瓶詰めにして持参していたからだ。
かくて山口組は「青い城事件」の勃発からわずか2週間で“一千人軍団”を豪語した大阪・ミナミの過激愚連隊・明友会を潰滅させるに至ったのである。それは改めて山口組の強さを周辺関係筋に見せつけて余りあった。
これによって大阪への本格的進出を果たした山口組が、全国各地に破竹の進撃を展開していくのはこのあとのことだった。明友会事件は山口組にとって、紛れもなく全国進攻の嚆矢となる決定的な抗争事件となった。
逮捕者102人。総懲役年数は200年以上
これによる山口組の逮捕者は102人、うち72人が起訴となり、そのなかには若頭・地道行雄、同補佐・山本広、同・吉川勇次、舎弟の安原政雄、中川猪三郎、韓禄春、中井啓一ら最高幹部も含まれていた。
懲役刑が下された者たちの刑期は、4年から最高12年余まで、それらの懲役年数を総計すると、実に200年以上にもなった。
そして懲役12年10カ月という最も長い刑期を科されたのが誰あろう、黒澤明であった。