昭和35年、勢力を拡大しつつあった山口組の大阪進出の本格的なきっかけとなったのが“明友会事件”である。ここでは 『山口組のキッシンジャーと呼ばれた男 黒澤明 その激動の生涯』(徳間書店)より一部抜粋。田岡一雄組長が残した事件に関する手記と、当時24歳の組員・黒澤明が果たした重要な役割を辿る。(全2回の前編/続きを読む)
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昭和35年8月、山口組大阪進出のきっかけとなった“明友会事件”
20日深夜、西成・山王町の加茂田組事務所に集結した山口組混成部隊は、早50人を数えた。
こうした山口組の動きを察知した西成署の対応もすばやかった。加茂田組事務所周辺を数台ものパトカーや多数の機動隊で包囲封鎖し、集結部隊の身動きがとれないように厳戒態勢を敷いたのだ。
それでもいっこうに集結を解かない加茂田組に対し、業を煮やした西成警察署長は、21日午前4時を期して、
「すぐに解散しなさい。いつまでもこの状態を続けるなら、凶器準備集合罪で逮捕する」
と申し渡した。解散命令に従わなければ、伝家の宝刀を抜くというのだ。これには加茂田自ら西成警察署長との交渉に応じざるを得ず、
「よっしゃ、わかった」
としたうえで、
「だが、警察もこの警戒を解除して貰わな。ワシらも承知でけんで。そっちが解いたら、ワシらもそうするで。そしたら1時間後や。5時に解散するで」
と約束を取り交わしたのだった。だが、その実、加茂田はすでに組員たちとの間で、襲撃作戦を練りあげていた。
それは50人の人員を4組に分けて襲撃部隊を編成、第1組が出動して警戒網に引っかかっても(ある種の陽動作戦)、第2陣、第3陣……と続いて警察の間隙を衝く四段構えの緻密な作戦であった。警察との交渉中も、
「出撃を準備せえ!」
とのブロックサインが、加茂田から密かに伝えられ、側近たちは頷きあった。さらに、交渉終了後、
「ワシの『解散!』の号令とともに作戦開始や」
という加茂田の命が全員に伝わって、組員たちは奮い立った。ついにそのときが来た。警察の警戒態勢が解かれ、加茂田重政のカムフラージュ解散宣言が高らかに発せられた。
「しゃあない。去のう、去のう」
立ち去る振りをして、第1陣の出撃組10余人が丸腰で車5台に分乗した。彼らが向かったのは、ミナミのキャバレー「キング」の用具置き場で、そこが武器の補給基地になっていた。
次々と現場に到着する山口組襲撃隊
幸いパトカーはついてこなかった。武器を補給した彼らは一路、そこから車で約30分の距離にある布施市足代の有楽荘アパートを目指した。